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先祖を探して

Vol.288 直城 (11) 直城の全貌②小字名について

ご先祖様が居住していた直城の丘ですが、はじめはこの丘全体が「小字名:直城」であると思っていました。




ところが、それは違っていたようで、丘の頂上を東西で仕切った南側の一帯が直城だったのです。
しかも、丘の南にはウファチジと呼ばれる丘があり、そこを超えた南側の道路あたりまでが直城です。
*範囲の線はざっくりです。写真の下側が南です。



そして丘の頂上であった場所あたりは畑1つ分が直城です。
ここは黄金の石が見つかった場所あたりです。

丘の山頂あたりから南側が直城で、しかもその範囲は思った以上に南側に広範囲でした。いつのころから小字の境界線があったのかは分かりませんが、この範囲については何となく不思議感がありました。
しかしその不思議感を払拭してくれるような、大変に興味深い情報が入りました。
それは「城」という言葉がキーワードのようです。

集落の成り立ちなどを研究されている先生からの情報なのです。沖永良部には「〇城」とつく地名がいくつかあります。通常は「城」とつく地名は、その付近に実際にお城があった場合が多いですが、沖永良部の場合はどうもそれだけの意味でははないようだと。
沖永良部の場合は「城」は集落を表す単位のような意味合いで使われていたのではということでした。

先生のおっしゃる意味合いを島全体の地名で調べたわけではありませんが、まずこの直城については納得です。
今でこそ小字名の範囲には畑が中心で家も殆どありませんが、昭和の始め頃まではこの一帯の南側には集落がありました。
当家の一族も1700年代にこの直城一帯に居住しておりました。

また城(現在神社)の南側は上城という小字名ですが、この南側にも以前は集落があったようです。直城の東側には世之主が最初に居を構えたという玉城という地区があり、そこにも古くから集落があります。
世之主の母親が住んでいたという下城という地区、ここにも集落がありました。
世之主に関連する場所をサクッと見ただけでも、城とつく場所には集落があったことが分かります。

島全体を正しく調査検証したわけではないのであくまでも個人的なサクッとした感覚ですが、直城の範囲が丘の頂上から南側に広がっていたのは、その範囲に集落があったからなのだと納得した次第です。
もしかしたら、世之主亡き後の中心地となっていた場所は古城地ではなく、直城の方だったのかもしれませんね。あくまで憶測ですが、色々と妄想が広がります。



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