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先祖を探して

Vol.373 義本王の墓と伝わる場所の海岸には ③硫黄なのでは

伊座敷泊の海岸の崖にある不思議なまるで倉庫のような場所。ここがかつての交易の港であったという話や、海に面した保管庫であることを考えると、ここに保管されていたのは硫黄であったのではないでしょうか。
硫黄であれば、完全に雨風がしのげる屋内でなくても保管が可能であったと思うのです。
しかも重い硫黄を船から荷揚げして陸内の倉庫に運び込むというのは、当時の労力で考えれば大変な作業。この海岸の、もしかしたら船から直接運び込めたかもしれないこの崖の倉庫であれば、保管作業が安易であったでしょう。そしてまた必要な分を船でその地まで運ぶことを考えても利便性が良い場所だったのではないかと思うのです。



硫黄は当初は現物をそのまま朝貢していたようですが、17世紀後半頃には不純物を取り除いて餅状に加工して貢納していたようです。
この加工の作業をしていたのが沖縄の宜野湾の地であったようで、この頃には宜野湾の海岸近くの洞窟に硫黄をいったん保管していたようで、やはり海岸近くの洞窟をうまく利用していたようです。

この硫黄が採掘できる硫黄鳥島については以前の記事でも書きましたが、徳之島からは徳之島の西約65km、沖永良部島からは直線距離で約59kmの位置にあります。14世紀後半から明王朝へ進貢する硫黄の産地で現在でも沖縄県に属しています。この島での硫黄の採掘について明記した最古の記録は、1471年朝鮮の申叔舟という人によって書かれた「海東諸国紀」です。その中の琉球国之図に鳥島が描かれており、「琉球を去ること70里。この島の硫黄は琉球国の採るところなり。琉球に属す。」と書かれています。
硫黄が最初に琉球から明に進貢された記録は、明実録に1376年の記録として明の使者が硫黄5,000斤(約3t)があるそうです。その翌年の1377年には、当時の中山王であった察度王が4,000斤(約2.4t)を献上したということです。
その後も三山の王たちはこぞって硫黄を貢上し、琉球王国が終了する19世紀中頃まで、硫黄は琉球と明・清朝の朝貢関係を繋ぐ重要な朝貢品で、硫黄鳥島は重要な重要な島であったのです。

この硫黄鳥島と沖永良部島との関係を記録したものは琉球や沖永良部島にはなく、伝承なども残っていないようです。しかし明実録には実に興味深い内容が書かれています。
それは明と琉球の朝貢や貿易関係が始まってから20年ほど後になる1392年5月の記事です。
琉球国の才孤那という人と28人の人々が「河蘭埠」という場所から船に乗り込んで海洋に乗り出して硫黄を採取しようとしたところ、風にあおられて小琉球に漂着し、さらに広東の恵洲府海豊県に再漂着したことが記録されていたのです。小琉球とは台湾を指すようです。
そして注目すべきは「河蘭埠」という場所です。この場所から琉球国の人々が船に乗り込んで硫黄を採取しに硫黄鳥島に向かったということですが、この「河蘭埠」は沖縄地域のどこかであり、それは沖永良部島ではないかということです。

続きは次回に。


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コメント一覧

yononushi
貴重な情報をありがとうございます。硫黄鳥島に上陸された方のブログを拝見し、港に大きな保管庫があるのを確認しました。沖永良部と同じように崖に長方形に掘りこまれた保管庫ですね。本当にいつの時代の物であったのか知りたいところです。
Unknown
硫黄鳥島の港の絶壁にも同じ様な硫黄保管庫と思われる穴が2つ掘られてます…いつの時代に掘られたのか気になりますね。
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