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先祖を探して

Vol.315 ご先祖さまの名前について ②地名の漢字表記

那覇世の時代には「ひらがな」文字が使われており、薩摩侵攻以降の大和世になってから漢字が使われ始めたことは前回書きました。
その漢字が島で広く使用されることとなったのは、1660(万治3)年に実施された万治検地と呼ばれる貢納を定めるための測量や地位査定を行い、検地帳を作成した時以降のようです。

この時に測量士として来島した武宮覚右衛門という人の娘であった梅千代と結婚したのが、当家の池久保(伊慶久甫)です。

検地帳の作成にあたっては、その土地で呼ばれていた地名を主に漢字を使って表記したようですが、もともと漢字文化はありませんでしたから、語調にあわせて充て字で漢字をあてはめていったり、その語の意味するところを把握した上で相応しい漢字を充てたりと、色々だったようです。

実際に地名で見てみると、世之主が最初に館を構えた場所は玉城という地区です。玉城は後世になってついた地名のようです。ここはもともと「イニヤトウ」と呼ばれている場所でした。この場所は土地台帳には西稲戸と北稲戸に分かれていたようです。
「イニヤトウ」の「トウ」は平地を表す「当」の意味だそうです。
この地には石橋川が流れ、平地で米の産地だったようで、ここで稲(イニヤ)を育て、収穫し、この平地(当)で乾燥などを行った。稲の収穫を行う広場というような意味がある「イニヤトウ」。そこに漢字を充てて、イニヤには稲という意味でそのまま「稲」を、そして本来は平地を意味する「当」の漢字をあてるべきところ、誤って「戸」という漢字が充て「稲当」となるべきところが「稲戸」となったようなのです。

検地帳作成の担当者たちが、漢字を充てる際に共通のルールを持っていたのかは分かりませんが、実際には当ではなく戸の漢字が充てられてしまったのです。読み方は方言でイニヤトウですが、漢字を見ると本来の意味から外れた充て字になってしまっています。

沖永良部の方言や島での発音からの独特な地名として、「ニユイ」と呼ばれる地区があります。世之主の城があった場所の後方北側にそびえる越山を北東方面に下った地区で、漢字では「根折:ねおり」と書きます。
「ニ」とは嶺の方言語で、「ユイ」は下り(おり)という意味になるそうです。
永良部方言では、語尾の「リ」の音は「イ」に変わるようで、下り(おり)は「オイ」になり、さらに永良部の方言は3母音で「あいういう」ですので、「お」の音は「う」に変化しますので「オイ」は「ウイ」に変化。
「嶺下り」が「ニウイ」ということです。
そうして発音される「ニウイ」の音が変化して「ニユイ」となったようです。
この「根折」の漢字は、本来の地名の「ニユイ」の意味とは全く異なった漢字が充てられていることになります。

島に行かれたことがある方はご存じだと思いますが、島では普通には読めない地名が沢山あります。それは地名がこのようにして漢字が充てられたという経緯があるからです。地名の漢字については、もう少しまた別で書きたいと思います。


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