居眠りバクの音楽回想

チェンバリスト井上裕子の音楽エッセイブログ。

葛藤と否定

2010-12-10 00:04:35 | 音楽哲学
初期キリスト教で良くないとされていた音楽

「技巧的な歌唱」「大規模な合唱」「器楽」「舞踏」

これらは、異教的見世物を思い起こさせるものとして有害とみなされる傾向があった。

これらは、あまりにも心を動かし、人々を快楽の虜にしてしまうからである。

「あの”悪魔的な合唱”やあの”淫蕩で害のある歌”に耽るくらいなら
 ”楽器の音につんぼ”の方が良い。
 ”天使ケルビーノの神秘な声を聞いた者が、劇場の放埓な歌や
  華美な旋律に耳を引き渡してしまうとは、ばかげたことではなかろうか。”
 しかし、神は人間の弱さを哀れんで
 ”宗教の教えに甘美な旋律を混ぜ合わせ、子供の頃から、ただ音楽を
  歌っているだけと思っている間にも、実際にはそれが魂の鍛錬に
  なっているようにするために、妙なる詩篇の旋律が付け加えられた。”」

 ~聖ヒエロニムス、バシレイオス、
  ヨーアンネス、クリュソストモス等・・・・教父たちの言葉より~

「私が自作の賛歌の旋律によって人々を誘惑したと主張している人たちがいる・・・しかし、私はそのことを否定しない(むしろ誇りに思う)」

 ~聖アンブロシウスの言葉~

ある種の音楽を否定する指導者達がいる一方で
それを擁護する意見を持つ教父も存在していました。

「音楽の喜び」そのものを味わうことが罪とされる世の中・・・。
 なんと抑圧的なんでしょうか。
 人々は何を喜びに暮らしていたのだろう?

 この事実が物語ることは
 それほどまでに音楽が人の心に影響するものだと
 彼らが考えていたことです。
 これは、私には重要かつ、大変重みのある事実です。