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加東景の下宿の壁掛け時計が古さびた鐘の音を響かせて、夜の十時をおごそかに告げた。
この古い時計は、ベッドや冷蔵庫など、この部屋の大まかな設備とともに入居前からしつらえられてあったものだった。
この下宿の主、池上弓子の娘が使用していた離れを改築して貸し部屋としたので、家具などがそのまま残っている。娘の愛用品をだいじにつかってくれそうな人を、という切なる思いから池上夫人は、なかなか下宿を開かなかった。もともと人間嫌いをしているへんこつな老婦人だったから、口も堅そうできまじめそうな加東景は、どうやらお目がねにかなったらしい。
なによりも静けさを好む家主の意を汲んで、景もこの下宿先にめったに人を呼ぶことはなかった。
はじめて呼び入れたのは、たしか昨年の紫陽花の咲く季節だった。しかも、そのとき招いた客は縁もゆかりもない、名前だけ知っているような相手だったのだから驚きだ。しかも、今じゃリリアン女子大でいちばんの仲良しといっていいかもしれない。
「おや、もう十時ぃ~?」
目の縁を紅くさせた聖が、柱時計を見上げては、なんともひょうきんな声を出した。
景もつられて、さももの珍しげに視線を注いだのには訳がある。その時計は針の動きこそ一分の狂いもなかったのだが、時刻を知らせる音がいたずらに鳴ったり鳴らなかったりするのだ。鳴ったからといって音だけで時の数を計ることもできやしない。午後二時に十回鳴ったかと思えば、夜中の零時にぽつんと一回鳴ったきりで拍子抜けすることがある。いっそのこと音だけを消してしまえないかとも願うのだが、池上夫人に相談しても、あいまいに首をひねったままで取り合ってくれなさそうだった。
以来、景は部屋のなかで唐突に静寂をうち破りかねないその鐘の音を、時ならぬ騒音ととらえることにした。
慣れ親しんでしまえば、電話のベルほど人を急かせるリズムでもなく、部屋じゅうに染み込んでいくような趣きがある音色なのだ。
いま、久しく現すことのなかったその鐘の音は、ひとつ、ふたつ、みっつと響いた。
いやに長く尾を引きずった最後の余韻を耳に名残り寄せつつ、景は聖の手元を凝視しながらつぶやいた。濁った液面が、その指先で危なっかしげに揺らめいていた。
「ねぇ、そろそろ片づけてレポートにかからないと、まずいんじゃない?」
景の忠告にも、ほんのり顔を桜いろに染めた聖は手酌をやめない。
ぐい飲みに並々と注がれて、四本目の焼酎瓶の中身も空いた。口元に吸い寄せるようにして運んだまま、それを五秒と空かずに一気飲みしている。酒くさい息を吐き散らしながら、聖は空き瓶をさかんに頬ずりしていた。
「だって、芋焼酎がうっかりこんなにおいしんだもん。芋焼酎がいけないのぉ~、そうなのぉ~。この子が私を誘惑するのが悪いのぉ」
目鼻をつけた紫いもが着物の上に白いエプロンを着けて笑っている、微妙なラベル。
愛想良く笑っているが、どう考えてもそぐわないデザインだ。町おこし機運の高まりで、最近は地方の物産品に萌えキャラが多用されることがあるが、そのラベルのキャラクターはそそられるような代物なんぞではない。日本酒といえば、熟年紳士の濁っただみ声をそのまま筆墨にとどめたような渋い書体が、堂々とラベルに踊っているのがお約束というものなのに。枯れ草をよじあわせたようなまどろっこしい薄桃いろの書体で「いも女中」とある、そのセンスの悪いネーミングもなんともいえない。
景の舌で確かめたかぎり、味の程は保証できるものだった。
しかし甘い香りはするが、癖があって濃い味わいからして、底なしに飲みつづけられるようなものではない。