皇月千華音は、湯気のはふはふと流れるなかを、曇った鏡のまえの自分と対峙していた。
豊かな胸の前をハンドタオルで隠せるだけは隠し、小刻みに揺れる膝がしらを合わせ気味にしながら、椅子に腰かけている。からだが熱い。こころが燃える。そして、ひたすら恥ずかしい。
なぜ、こんなことになったのだろう。
私はただ、媛子の喜ぶ顔が見たくて、あれを届けに来ただけなのに…。まさか、こんな…媛子と…。
いま、千華音は媛子の賃貸マンションのバスルームにいるのだった。
このマンションは間取りが広いせいか、浴室もユニットバスではなく、セパレートなのでややゆったりしている。湯舟にしたって、ふたり肩を並べて入れそうな大きさである。女の子の一人暮らしにしては、十分すぎる広さだった。カップル御用達かファミリー向けの物件なのであろう。ジャグジーもついていて、泡風呂にもできる仕様。部屋が広すぎて、奥の部屋が暗いと怖いから、たまに逢いに来てね、なんて媛子に言われてしまうものだから、千華音もいまやすっかり通い婚状態なのである。台所にたまに出没するあの油っこい虫退治も、千華音にお任せになっている。
「千華音ちゃん。痒いところ、なあい?」
「ええ、だいじょうぶよ…」
媛子の言葉がぼんやりと、壁に反響しあっている。しゃか、しゃか、しゃか、とした音がそれに続く。
頭の上では、泡だちあふれたなかを、さかんに指があちこち行き来している。指の腹でしっかり地肌を揉まれるのは、すこぶる気持ちがいい。
千華音の豊かな長い黒髪は洗うのが一苦労で、普段はシャンプーで洗いあげたのちは、上からシャワーを浴びてていねいに流している。戦士の育ちゆえか、女の子らしくゆっくり腰かけて入浴するなどということもなく、湯浴み中だからといって、警戒心を怠ったことはない。しかし…。
千華音はあられもない姿で、対する媛子ときたら短パンにTシャツ姿。
どう考えても形勢不利なのはこちらだった。彼女にありのままの裸を見せてしまうなんて。でも、にこにことしたその顔で、タイを緩められ、黒セーラー服をまんまと脱がされて、ジッパーがずれてスカートが足から抜ける音を聞きながら、それをみすみすドキドキしながら待ってもいた自分がいたことを、千華音は認めざるをえない。私はいつのまにか、媛子にこんなことまで許してしまえるようになってしまった。
ぎゅうと目をつぶったりすると、痛がっていると思われてしまう。かといって、腋の下をこすられて笑いこぼすのもなんだか悔しい。
したがって、当座、平気な顔でタイルの目地を数え、ごふごふと流れる泡が排水溝に渦巻きながら吸い込まれるさまを眺めておくしかないわけで。いったい、これはなんの我慢大会なのか。これでは拾われた野良の子猫をシャンプーするのと同じだ。濡れると鶏ガラよろしくみすぼらしくやせ細った自分を小ぎれいにしてもらう獣の様を思い浮かべながら。牙を抜かれて、すっかり可愛がられている愛玩動物めいた扱いになっている自分。もはや、千華音は媛子のなすがままなのである。
媛子の柔らかな指の腹が、背中をすべっていく。
手のひらから二の腕あたり、あるいは肩揉みと称してマッサージされたことはあるけれど、裸の背中を見せたことなどついぞなかった。皇月の御神巫女たるもの、敵に無防備にさらすなんてありえない事態なのだった。だいじょうぶ、いつだって挽回できる…はず。そう、ここで襲われたのだとして…も。
「あっ、そこは…」
甘い刺激のために、千華音が肌をひくつかせる。
媛子の握ったスポンジが柔らかな胸の下を降りて、お腹のほうへ回ったからだった。いま、変な声出していなかったかしら。顔が炎のごとく赤くなる。身じろぎしようとしたら、肩をがっつりとつかまれた。座っていて、ということらしい。
「でも、千華音ちゃんは怪我しているから、わたしがきれいにしてあげないと」
「そこはいいの。自分で洗うから…」
「そうなの。残念だなあ」
媛子は指くわえたげに物欲しそうな顔をしてみせたが、千華音があまりにもいやいやをするものだから、あきらめ顔だ。媛子も観念したのか、おとなしく脱衣室のほうへ消えた。湯でけむるドアの向こうに隠れる前に「千華音ちゃん、恥ずかしがりやさんなんだね」と、くすりと笑いこぼされながら。
シャワーカーテンが引かれた向こうには、ほどよく熱めの湯を張ったバスタブ。
いまから、ひとりのお風呂タイム。きょうは私が一番風呂、媛子のお湯ではない。断じて、媛子のお湯ではない。媛子の頭を洗ったシャンプーや、媛子の肌をすべった石けんにももう慣れた。以前のように溺れて、惑わされることなどありえない。
やれやれ…と思って、千華音が手にしたスポンジ――それだって、いつも媛子が使っているもののはずなのだが――をほのかな疼きの残る乳房にあてようとすると――。
「えへへ、来ちゃった…」
前触れもなく、かたん、と開いたドア。立ちこめる湯気の向こうにいとおしい輪郭。
曇りがちな空気の幕が晴れると、全容が知れる。バスタオルで腰を巻いて、胸の前には洗面器。そのなかには、なんとなく間抜け顔なビニル製のあひる人形。
丸みをおびた撫で肩に、ほっそりした首。陽の色の髪を上に結い上げた少女が、そこにいた。屈託のない笑顔をふりまいて。あっけにとられて千華音はスポンジをとり落とし、はじらいにその前を隠すのさえ忘れてしまった。
けっきょく、千華音は媛子に介抱されて、ふたり仲良く入浴したのだった。
こちらの裸を見るまい、覗くまいと必死だったのが、媛子にはおかしくてたまらなかった。湯気がたったなかでもわかるくらい、耳の付け根まで真っ赤だった。そこを甘噛みしたら、もうどんな顔しちゃうのかな。千華音ちゃん可愛い、なんてほくそ笑みながら。
千華音は知らなかったのだった。
媛子が自分のからだを隅々まで確かめるために、入浴に誘ったのだということを――。
【目次】姫神の巫女二次創作小説「さくらんぼキッスは尊い」