ここは一歩踏み入れれば、敵地であって戦場であって、負けることはできぬ場所。そう、断固として気を許してはならない。
相手の懐に入ったら、油断させるのはこちらなのだ、しかし、だが、しかし…――。
媛子のマイルームに招かれたときから、ずっとずっと媛子のターン。
千華音はもうすでに媛子のペースに乗せられ放しなのだった。ここには、あまりにも媛子の生活の匂いがあふれている。ソファにも、布団にも、ぬいぐるみにも、タオルにも、借りた下着にも。さきほどの、のぼせあがる一時間にわたるバスタイムも。甘い少女の気配に酔いつぶれ、すぐに退きたくなるはずがあろうはずもない。
浴室から出た千華音は、やはりと言えばやはり、脱がされたのと同じく、着つけもされたのだった。
寝間着は着脱しやすいのか、浴衣みたいなものを着せてくれた。絣で通気性がいい。無地に近いから長襦袢みたい…。それにしても、どうしてこんなものを用意していたのだろう。洋箪笥のナフタリンを打ち消すほのかな香水の利いた布地に包まれる。前に誘われて一泊した際は、かなりからだの線がよくわかるルームウエアで窮屈だったが、さりとて千華音が媛子のすすめるものを拒むことはめったにない。
媛子が両膝をついて、帯までしっかりと締めてくれる。
わたしの分よりも千華音ちゃんは長さが余っていいなあ、なんて笑いこぼしながら。しかし、千華音としては、その帯の結びかたが気になる。なんとなく緩すぎる。それに、変わった結び目だった。そして、媛子の頭が自分の腰のあたりにあるのも気になる。
「ほら、これね、お揃いなんだよ。旅館に泊まったみたいでしょ」
「そうね。片手が使えないからちょうどいいけれど…」
「前にね、貸してあげたパジャマ、きつそうだったから。これにしたの」
着物はからだより隙間がある分、武具を潜めやすい。わざとこんな服にしたのか。しかし、逆に言えば、帯ひとつ解けばすぐに裸にしやすくもなる。帯で縛りあげることだってできる。
ほんのりと桜色に染まった媛子の鎖骨のあたりを眺めながら、千華音はよからぬ幻想を振り払った。胸がとくとく鳴って、ほんのり痛い。血が熱く沸きたったのは、浴場でながめた媛子の白桃のような裸のせいなのか。
翠なすその黒髪にタオルドライをして、髪にドライヤーをあてながら櫛で解かしてくれたのも、媛子だった。
以前のお泊りの時は、いろいろな髪形にして遊んでいたみたいだけど、今回はまとめやすくひとつの大きな編み込みにしてくれた。寝ているときに癖がついてしまいそうだが、手を怪我している以上、絡みやすくないかたちにしておいたほうがよかった。媛子はそのあたりの手配がうまい。
髪をすっかり乾かしてまとめあげたあと、媛子がふいに後ろから抱きついてきた。
「…どうしたの、媛子?」
「うん、千華音ちゃんが無事でよかったなあと思って」
媛子は安堵の表情を浮かべる。まるで、おもちゃを拾った子供のような無邪気さだった。
あの毒針と火傷の痕…あの猫好きちゃんは、にゃあのにゅあの言いながら、やってることは獰猛な虎に近くて、姦計にかけては子猿並み。そして、一緒にいたのは、あの馬鹿力のお姉ちゃんだろう。媛子も小さい頃からよくいじめられたけれど、彼女たちはタチがよくないから、栄えある日乃宮の御神巫女には選ばれなかったのだった。とにかく女だと思えない乱暴者コンビで、千華音ちゃんが骨を外されたり、筋肉が腫れたりしていやしないかな、と冷や冷やしたけれど、だいじょうぶだった。媛子が心配したのは、秘奥のツボを押されてはいないかということだった。あれを先に誰かにおさえられていたら、媛子の計画がすべておじゃんなのだった。
「私はそんなに簡単にやられたりしないわ。ヤワじゃないもの。媛子、もしかして、私を見くびっているの?」
「ん、そだね。千華音ちゃんは強いよね。負けるわけないよ、わたしを…」
冗談めかして言いかけた言葉を、媛子が飲み込む。千華音もその言葉を思い当たったが、軽々しく紡ぐことができない。
――貴女を殺すまでは。
――あなたに殺されるまでは。
そうなのだ。
あの島で生まれ、神に選ばれた二人に課された絶対不変の運命のために、このふたりは互いに十六歳の誕生日までは、かってに死ぬことも許されない。いたずらに血を多く流すことすらも許されない。彼女たちの肉体は、髪ひと筋まで、あの島の高貴なる守り神に捧げるものだった。そして、不思議なことに、お互いのいのちを削りあうために、両名ともにからだを清め、護りあわねばならないのだ。それこそが、ふたりの御神巫女に課された暗黙の盟約。
誰かに傷つけられ、奪われてしまうぐらいならば――いっそのこと、私が…。
その想いは残酷なのだろうか、それとも優しさなのだろうか。どこかに、いつかに、死が転がっていないとも限らぬ理不尽な不条理なこの世で、愛する人の腕のなかで死ぬことこそが美しいのだろうか。
以前ながら、毎度のあいさつがてら、殺していいの、殺していいよ、なんてお互いに茶化して言っていたのに、なぜ、それを思うと、胸がチクチクするのだろう。
千華音も媛子も、あと三十日あまりに迫った「その日」――秘められた儀式――のことを思い出し、おのずと口を噤んでしまう。
写真立ての近くにあったはずの、卓上カレンダーはいつのまにかなくなっていた。
恋人どうしならば、ふたりの秋に誕生日は明るい文字でマーキングされていたはずだった。だが、このふたりに、その甘い記念日はやってこない。冬のおめでたいクリスマスも、お正月明けの雪だるまづくりも、甘いバレンタインも、桜のウキウキお花見も、新学期のわくわくクラス替えも、来年公開のあの人気映画の鑑賞も、延期になった東京五輪さえも…ふたりして永遠に続く明日は――。たった残りひとりだけが人として生まれ変わることが許される「その日」まで。だから、先取りしてお祝いしていたりするのだった。
この二人は、その死の運命の重みにまだ気づいてはいない。
その魂がなにを求めているかも知らずに、ただ二人はこの大都会で、ふたりだけの宿命をわけあって生きている。
【目次】姫神の巫女二次創作小説「さくらんぼキッスは尊い」