陽出る処の書紀

忘れないこの気持ち、綴りたいあの感動──そんな想いをかたちに。葉を見て森を見ないひとの思想録。

あれからの神無月の巫女、これからの姫神の巫女(十五)

2021-11-17 | 感想・二次創作──神無月の巫女・京四郎と永遠の空・姫神の巫女

百合夫婦、そのはじめての共同作業は
宿敵への叛逆まみれケーキ入刀です!(違)


ベンジャミン・フランクリンはこう述べたそうです──「人は助けたひとを好きになるものだ」と。前回の前振りの続きではないのですが、まずもって好き嫌いがあるから助けるか助けないかなのではなく、とにかく手を差し伸べることが肝要かと語る。自分のことをなげうってまで誰かを大切にすること、それには不自由も負担も伴います。何かをしてくれたから、その見返りに好きになってあげよう、というお仕着せでもなく。けれど、それだけの幸せもあるのではないか。「姫子」と「千歌音」のたどるこれまでの物語をめぐって、彼女たちのさまざまな結びつきを通じての、愛情とはなにかを考えざるを得ません。

漫画版「姫神の巫女」の第十七話は、2021年11月号の電撃マオウ誌掲載。9月27日発売で、なんと神無月直前。ウェブノベルを先読みしたうえでは、そろそろ終わりが見えてくるころ。なのに、とんでもないふたりの試練が待っていました。

すでにコミックウォーカー等での電子版の公開は終了しておりますので、ネタバレ配慮なしでレヴューします。単行本待ち派の方はご注意ください。

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御観留め役の双磨によって仕組まれてしまった、ある意味場外の、御霊鎮めの儀の再演。
媛子は千華音の命を奪うことを余儀なくされて、斬りかかろうとして…なんと! いや、ほんと、これはさすがに予想外です。いちど戦ったふたりだからこそわかる間合いといいましょうか。千華音ちゃんが避けずにいるから…もう! ここでうまいと思ったのは、媛子がわざと「ごめんね」を乱発したことですね。

この言葉なんですよね。前回、千華音ちゃんとの再会即エスケープ時に、媛子が言っとくべきじゃなかったかなと思われた台詞。なぜって、結果オーライといいましても、嫌われてもいいからといいましても、やはり千華音ちゃんをこっぴどく騙していましたし。ずるい手も使っていたわけですから、ひと言ぐらいの謝罪ぐらいあるべきでは。なんて、責めるような気持ちを私は読者として抱いていました。けれども、媛子は自分の行いをしんどくはあったけれども、悪いとは思っていないんですね。それは千華音もわかっている。だからこそ、媛子のほんらいはここで言わない「ごめんね」で、千華音はなにかを感じ取った──そういうふうに演じているわけですね。

そして、ここで双磨が発狂(…なのかな?)。
御神巫女をじつは自分の手で殺めてみたかったと。なるほど絵に描いたようなサイコパスです。でも、なぜ? なんと九頭蛇の皆さんも、御神巫女になれる素質はあったらしい。原作漫画「神無月の巫女」でも、オロチの因子と巫女になる因子は同じと明かされていたので、立場として近いのかなとは思っていましたけれども。二話でツバサ兄さん似(このひとも女性なんだろうか?)の壱の仮面のひとが語っていたソウマ子の個人的事情って、これだったのでしょうか? このひと、身体が継ぎ接ぎだらけなので、むしろ経験者でいちど死んでるんじゃないかしら、と思っていたんですけどね。手足が伸びる触手のような攻撃も、ゴムゴムの実でも飲んでしまったのでしょうか(作品が違います)。でも、媛子が千華音ちゃんにフェイクで斬撃の直前に見せた、片方の瞳がなんとなく切なそうで、裏事情がありそうです。そのあたり、今後、語られたりするのかしら。二重人格っぽいですよね。

で、このあと、例によってソウマ子の触手で媛子を狙われるも、すぐさま千華音ちゃんが華麗なフライイングキャッチで救出! アニメ神無月の巫女第一話のロボットの掌から落ちた姫子を拾った宮様のごとく。

だが、しかし! 媛子を庇って致命傷を負ってしまった千華音。
双磨から一時逃れるも、心臓の上あたりを貫かれたかなりの出血。自分を置いて逃げてと諭すのですが──、このときの媛子の、不意打ちの、凛とした表情からのアレが…、その、もう最高です。これは千華音ちゃんじゃなくても、惚れますわ、痺れますわ。だって、ここで置いてけぼりにしたら、なんのためにぞ、御霊鎮めの儀で神に叛く嘘を貫いのだかわからない。媛子には媛子なりの信念があります。で、ここではじめて、前回(ソウマ子に邪魔されたがために言えなかった)の千華音からの呼びかけに答えるわけですよね。八話の口紅ではなくて、互いの同じ命の色をした唇で…というのがまた。京四郎と永遠の空のひみこがかおんちゃんに与えるエターナルマナではありませんが、媛子は止血するツボでも押したのでしょうか? 

さて最後に、ふたたびソウマ子登場。
崖っぷちに追い詰められた御神巫女ふたり。そこで浴びせる双磨の言葉が辛辣。「女同士の恋愛と来てはまともな終わり方があるわけがない」。これに近い言葉を千華音ちゃんに九話でも言わせていましたけれども、原作者の介錯先生は、いやそもそも、このウェブノベルを世に出したアニメ神無月の巫女のスタッフは、なぜこの台詞を言わせるのでしょうか。その真意は、旧版DVDのブックレットの解説にあるとおりではないでしょうか。テイストではなくて、恋愛ごっこでもなくて、物語のうわばみでもなくて、女性どうしだから何でも許される、女の愛は(男のそれよりも)尊ばれなければならないという甘受でもなくて、性別とか、違いとかをのりこえたところにある、現実の、本気の、ひとが誰かと生き抜いていくための覚悟を描きたかったのではないか、と思われるのです。そして、「まともな終わり方」ができなかった愛とは、まさに神無月の巫女世界のふたりに他ならないのではないでしょうか。




「まともな」終わり方ではないけれど
「まちがってはいない」終わり方だった神無月の巫女



ラストの一枚絵で、千華音と媛子が向ける刃が双磨というよりは、こちら側の読者に向けられているのがなんともいえない構図ですね。前回のラストと比べると驚きの格差。「可哀想な人」という静かな反論は、女同士の愛を馬鹿にしたから、というよりも、真摯に愛を結びあうふたりの死や別れを望んで喜ぶような、他人の生殺与奪を握って(たとえ、それが架空のキャラの命ひとつであったとしても)愉悦に浸っている人間の驕りに対する戒めの言葉のように、私には響きます。刺激的な話運びを望むあまりに、キャラクターが安易に死ぬことを予想するような読者になってしまっていないかと。女の子ふたりが想い激しすぎるあまりに斬り合うような展開がありますと、すぐに百合の極致だの、神無月の巫女だのに結びつけられるのですが、それってすごく不名誉なことではないのでしょうか。比べる方も、比べられる方も。目的のための手段としての表現なのであって、その凄絶な場面を描きたいだけの物語ではないのです。(…と、私は思いたい)

ところで、てっきり今回の十七話もしくは次回が最終回かと思っていましたが、とくに表示がなく…。瀬戸際に追い込まれたふたりは、ここからどう起死回生の大逆転を果たすのか、ますます見ものですね。


あれからの神無月の巫女、これからの姫神の巫女(まとめ)
神無月の巫女のスピンオフ漫画「姫神の巫女」(2020年5月より連載中)の本誌掲載分の随時更新感想の一覧です。レヴューは各話やるとは限らないので、通し番号にしてあります。単行本派の方に配慮しないネタバレ全開となっています。

★★神無月の巫女&京四郎と永遠の空レビュー記事一覧★★
「神無月の巫女」と「京四郎と永遠の空」に関するレビュー記事の入口です。媒体ごとにジャンル分けしています。妄言多し。

神無月の巫女公式関係者リンク集
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