後ろを振り返ってみれば。
千華音は立ち止まって空を見上げている。媛子は道を後戻りして、側に並ぶ。冴え冴えとした光りを受けた少女の顔は美しい。香り高い風が吹いて、そこだけきれいに喧騒な空気が払われた気持ちになる。あんなに怖くて怯えて、それでも我慢して、このひとの隣に並んできたのに。泣きそうになって、媛子はあわててあくびをした。いつもぼんやりとした顔をするのは、気持ちの乱れを悟られないためだ。柔らかな自分のココロを守るために、媛子の顔は貝殻のようにきまりきった笑顔で固くなる。
────だって、好きなものを壊すのって本当につらいから。
愛したものをこの世に残さなくて、こころのなかにだけ埋め込むのって辛いから。うつろになった貝殻みたいに空(くう)になって生きるのなんてしんどいから。だから、千華音ちゃんにはそんな想いはしてほしくないな、だって、わたしは千華音ちゃんのことが──…。わたしはいっぱい、いっぱい言い続けるよ。死ぬ間際になんかじゃなくて。逸らされても、無視されても、最期にあなたの笑顔が止まるその瞬間までは。あなたの時間がもういちど新しくはじまるそのときに、わたしはあなたの側にはいないのだから。だから、いつか、気づいてほしいんだ、わたしの本当のことだけを…──。月と太陽ほどに遠い世界に離れてしまう私たちの、どうしようもない生と死の選択のことを──。戦いと使命に明け暮れたあなたを愛した人が、この世界にはいたのだということを。どんな過ちを犯しても、ふたりはすべてを赦しあってきたのだということを。くだらないと言われても、許されないと責められても、それでも、わたしたちはそれをするだろうね。巫女とさだめて生れ落ちた、永遠のわたしたちなのだから。
「あ、ほら、千歌音ちゃん。お月さま、きれいだねえ」
「そうね、今夜はいつになく…。月だけは、こんな都会でも故郷と同じく美しいのね」
不夜城のネオンはいまだ消えることがない。東京の空気はいくらも澄むことがない。
未来都市といったきらめき溢れるベイエリアの近く、光る巨大観覧車が多くの人のひとときを厳かにまわして遊ぶ。ぼぼう、と異国へ向けた汽笛が、鈍く広く遠くに鳴っている。港湾がひろいから、あんなにもぼわんと広がって響いてしまう。海の色は重ぼったく不透明で、とても見つめておけるものではない。媛子が好きだから、嬉しそうに生き生きとする街だから。しぶしぶながら住んでいる、地獄のような華やかさの風景。ふたりきりでいても咎められず、刃を忘れられる不思議な、危険な騒がしい人いきれの場所。いつか楽園に思う日が来るだろうか。千華音にはわからない。
星影は見えずとも、濁った排気が漂おうとも、月だけはくっきりはっきりと、このふたりの先を照らしてくれているようだった。この地球ができたはるか昔から、そして千年万年のちも、文明が栄え滅び、そしてまた立ち上がるその歴史の切ない繰り返しのうちに、月はずっとそうであり続けるのだろう、永遠に。このしがない地上に降ろされた巫女の末裔を見守るために──…。
「ね。月がきれい、って英語で何ていうか知ってる?」
「さあね。学校の授業で習ったのかしら」
媛子にしては、柄にもなく風流なことをいう。しかし、千華音はあえてその答えを知りたいとは思わない。媛子もあえて追いかけない。答えられなかったのに、なんだかそれで満足そうだった。媛子が嬉しいのならば、それでイイ。
千華音はかすかに笑みをつくって、鞄を肩から小粋に後ろ手に掲げた。
この姿勢をとれば、うかつにすぐには抜刀できないことに、千華音はもはや気づいていない。腕が空いたら、そこには媛子がしたたかに滑りこんでくる。胸のあたりに寄せた頭、アロマの香り。小突くと、いたずらっぽく微笑み返して、ふざけて抱きついてくる。媛子が語った言葉の真意も知らずに、千華音はさせるがままだ。
愛はみえるかたちで現れてこない。動いたときにそれが芽生える。
貝殻が砂浜ではすでに命もたぬように、その海のなかへと飛びこんではじめてわかる。たったひとつの生命がどれだけ深い砂底でもがき、そして何を救おうとしていたかを。月が狂うほど美しいのならば、そこには言い知れぬ好きが溢れているはずなのだ。
空に浮かぶ三日月が煌々と輝く、その夜道をふたりの少女は腕を組んで歩く。
友だちごっこはまだ続く。ふたりはまだその運命の先に何が起こるのかを知りもしない。乙女たちの試練はまだはじまったばかり──…。
【了】
【目次】神無月の巫女×姫神の巫女二次創作小説「召しませ、絶愛!」