壁掛け時計が、正確に午前零時の鐘を打つ。
媛子にお世話をされて、戦いの疲れもほぐれ、うつらうつらいい心地になりかけた千華音は、はっとなって我を取り戻したのだった。そうだ、忘れていた。きょうの訪問の目的を…。
「お風呂をいただいて、ありがとう。それでね、今日はこちらを持参したのだけど…」
と言って、千華音がいつもの大きな鞄から取り出したのは――ビニル袋に入った透明な六角形のカップの容器だった。中には艶々しく輝く赤薔薇いろの果実が並んでいる。
「わあ、これ、アメリカンチェリーだね」
「外国産なの? 日本の果物にしては色が濃すぎると思って」
「さくらんぼの一種なんだよ、知らない?」
千華音は島でみる果物しか目にしたことがない。
交易が限られている故郷の島では、山桃やいちじく、干し柿、夏蜜柑、さつま芋などなど、いかにも田舎にありそうな原初的な甘味しか味わえない。糖分はからだを動かし、頭をすばしっこく働かせるために、必要最低限摂ればいいもの。チョコやアイスなどを食したことがなかった千華音は、都会に出て媛子に教わったそれに驚いてしまった。とくに驚いたのは、流行っているというタピオカジュースだった。女の子が好きなものがこんなに甘くておいしいのだとは思わなかったのだ。ほっぺが落ちるという形容がふさわしいぐらいに、それを喜んでいる媛子を眺めて、千華音もなんとなく嬉しくなった。こんなささやかなことなのに。
草いろの軸の部分をつまんで持ち上げる。
ひと粒ずつになっているのもあるが、なかにはふた連なりになっているのもある。媛子が瞳をきらきらさせている。どうやら、好物のようだ。にんまりと微笑ませた口もとが艶々しい。お風呂のあとに乾燥防止のためのリップを塗ったのだろう。
「粒のすくない葡萄みたいね」
「葡萄じゃないよ。さくらんぼなんだって。ね、千華音ちゃん。さくらんぼの茎はね、舌で結べるんだよ」
「そうなの? 外して食べればいいのに」
媛子が瞳を爛々と輝かせていわくありげに言った言葉は、千華音には肩透かしをくらう。
もお、しょうがないなあ。実演したっていいけれど。でも、もっと、どっきりさせちゃいたい。媛子がほくそ笑み、
「おいしそう。頂いていいの?」
「どうぞ、召し上がれ」
媛子が知っている食べ物だと知って、千華音はといえば、なんとなくほっとしたのだった。
さくらんぼに似ているとは思ったものの、あまりに色がどす黒そうだし、皮が厚そうだから、毒のある果実なのではないかと疑ったのだった。世の中には食べ物に似せた小型爆弾もあるというから、用心にこしたことはない。にしても、なぜ、こんなものが、自宅のアパートに置かれてあったのだろう。千華音の借家には、めったに皇月家からの仕送りなどはこない。媛子に手出し無用と断ってから、資金援助も拒んでいるのだ。そのため、千華音は学校の合間を縫って、複数のバイトを掛け持ちしている。働くのは大変だが、体力は有り余っているし、都会の地理や交通に詳しくなっておくのも悪くはなかった。バイト先で仕入れた情報からデートスポットを選んだり、評判のランチを探ってみたりするのは楽しくやりがいのある作業だった。しかし、この米国産のさくらんぼだけは、自分が買い置きした覚えはないはず…。
「じゃあ、さっそく、いただきまあ~す」
…と言って、媛子はチェリーのひとつに唇をつけると、それを千華音の口もとへ押し当てた。むにゅ、と丸いものが迫った感触に、千華音は顔をゆがめる。媛子の唇のグロスが剥がれている。それは、つまり…。少し、後ろへ首をのけぞらせて、てかりのある上唇を少し舐めた。
「媛子、いったい何の真似?」
「あれ、知らないのかな。これはこうやって食べるの」
「さくらんぼの食べかたぐらいは知っているわ。その実をまるごと含むのでしょう」
「うん。だからね、千華音ちゃん、あ~ん、して」
「そんなことしなくたって、空いた手で放り込めば…」
「ハイ、千華音ちゃん。あ~んして」
媛子が見つめる。舐めたほうではない双子になった粒のもういっぽうを、ほらほら、と差し出す。
千華音が困った顔をする。媛子がおねだり目で促す。そのつぶらな瞳にはもはや逆らえない。千華音は、ふふ、と笑いこぼして、そのチェリーを口に含んだ、そのとき。
「…え?!」
千華音が目をぱちくりさせたのは言うまでもない。媛子が相前後して、片方の粒を口にくわえたからだった。
どうしよう、媛子の顔が…あまりに近い。
赤い果実をくわえて、甘く開いた唇がなんとも艶やかで煽情的だった。千華音の瞳がきらきらと光る。まるでなにかの閃光を浴びたかのように。恥ずかしくて、思わず、その涼し気な瞳を横ざまへ流してしまった。
【目次】姫神の巫女二次創作小説「さくらんぼキッスは尊い」