すべての読者に気に入ってもらう文章を書くことは不可能である。
なぜなら、同じ文章を読んでも、読者によって考え方・育ち・その時の気分が違い、全く違った感想を持つからである。
お陰さまで、ポルトガル語のブログは、「日本人とブラジル人のジェスチャーの意味の違い」に関して書いた記事で1日に2万アクセス、「(試験は常にボールペンで書くブラジル人に対して)日本人は試験は常に鉛筆を使用する」ことに関して書いた記事で1日に7千アクセスを記録した。
もうさすがにアクセス数に関しては、驚かなくなった。ただ、それだけアクセス数が多くなると、コメントも多くもらう。日本人が書いたポルトガル語の記事にコメントをいただけるなんて、有り難いことである。
もらうコメントのうち、8割がたはプラスのコメントだが、2割くらいはマイナスのコメントである。
冒頭でも述べたように、すべての読者に気に入ってもらうことは不可能であり、そもそもそれを目指してもいない。だから、マイナスのコメントをもらっても、気にしないようにしている。
そういったコメントは管理人の権利として消せばいいのだ。
但し、僕が消すのは、どうして僕の記事に関して批判するのか、その詳しい理由が書いていないものである。
「ばか」とか「日本に帰れ」とか「無知だ」とか。
批判するなら、その理由や根拠を述べてほしい。その批判が的を得ているようであれば、僕自身の勉強になり、その批判で成長できる。また、僕が納得出来るような理由ではなくても、一人の意見として尊重する必要もあると思う。
だから、理由がきちっと書いてあれば消さない。逆に残す。
何しろ1つの事象に関して、絶対的な正解など存在しないのだから。
また、「あなたは偏見的である」というコメントもどうかなと思う。
なぜなら、世の中に偏見がない人なんていないのだから。人は多かれ少なかれ、偏見は持っているし、自分ではないと思っていてもあるものだ。
ブラジルの小話にこんなのがある。
「私は黒人に対して全然差別意識を持っていないよ。だって、私の親友は黒人だもん」
批判は成功する上で不可欠なものだと思う。だから、批判されたら喜ぶべきなのである。
僕の座右の書「ユダヤ人大富豪の教え」にはこう書かれている。
批判はその人が物事をどう考えているかの意見表明に過ぎないということであって、その人の価値とは全く関係がない。
批判の本質とはあなたが前進するための向かい風であり、その批判に心から感謝できるか、相手を恨むかでその人の器が決まる。
往々にして、批判する人はあなたの最大の理解者にもなる。あなたに興味があるから批判する。「よくなってほしい」との気持ちがマイナスに振れているだけである。
批判されてこそ、一人前なのかなと思う。
ただ、僕が好きなブラジル人コラムニストのステファン・カニッツが言っているように、批判するなら匿名じゃなくて、きちっとその人に反論できるようにしないと。
言いっぱなしというのはどうかな。
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