伝・豊臣秀頼の墓 goo.gl/zoUZCV
— Kuro-Mama(Yukie Kurikawa) (@yukie_nagoya) 2019年2月17日 - 14:04
小松帯刀の死去について調べていたが、興味深いのは盟友とされた大久保利通や西郷隆盛との関係である。小松は明治3年(1870)7月18日夜(正確には19日未明か)に息を引き取った。そして大阪天王寺村(現・大阪市天王寺区)の夕陽丘墓地に… twitter.com/i/web/status/1…
— 桐野作人 (@kirinosakujin) 2019年2月16日 - 15:29
その臨終には東京の大久保も鹿児島の西郷も立ち会えていない。だが、小松が他界する半年ほど前、大村益次郎暗殺一件で京坂に来た大久保利通は病床の小松を2回見舞っている。また他界から5カ月後には夕陽ヶ丘の墓参もしているのが日記に見える。小松の墓の前で大久保の脳裏には何が去来しただろうか?
— 桐野作人 (@kirinosakujin) 2019年2月16日 - 15:29
大久保の見舞いと墓参はいずれも鹿児島下向の途次立ち寄ったものだが、やはり小松の無念を思いやってのことではなかったか。一方、鹿児島に居続けた西郷は小松の見舞いも墓参もない。町田明広さんによれば、小松が王政復古政変に立ち会わなかったのをきっかけに、西郷は小松と疎遠になったという。
— 桐野作人 (@kirinosakujin) 2019年2月16日 - 15:29
小松の王政復古政変への不参加については、当時から後藤象二郎や松平春嶽は小松が失脚したととらえたり、最近の論文でも大久保が小松の上京を阻止したとかの路線対立が背景にあるのではという見方もある。でも、拙著や拙稿でも何度も書いてきたが、大政奉還直後、帰国する船中で小松は持病が再発し、
— 桐野作人 (@kirinosakujin) 2019年2月16日 - 15:29
その後、桜島の古里温泉で長い療養生活を送っている。藩主茂久の率兵上京に同行できない無念を、後藤象二郎に「天下国家に用立てない」と嘆いているほど。また自分の代わりに大久保を上京させると述べている。ようやく上京したのが年が明けて慶応4… twitter.com/i/web/status/1…
— 桐野作人 (@kirinosakujin) 2019年2月16日 - 15:29
小松が西郷・大久保と対立していたのなら、西郷がなぜ小松は上京してこないのだと不審に思うことはない。西郷は小松の上京を期待していたのだから。むしろ、好き嫌いが激しいといわれる西郷の一面を見る思いも。一方、大久保は文久2年以来、久光四天王の同志として西郷よりも小松と親密だったか。
— 桐野作人 (@kirinosakujin) 2019年2月16日 - 15:29
「篤姫館へ」2008.1.12 mixi日記より goo.gl/CgxPCx
— Kuro-Mama(Yukie Kurikawa) (@yukie_nagoya) 2019年2月17日 - 21:51
木之下の田の神さぁ goo.gl/F38yRh
— Kuro-Mama(Yukie Kurikawa) (@yukie_nagoya) 2019年2月17日 - 23:10