3か月振りでした。みんなお元気でよかったす。
山田の三平でおこなわれました。
洋食と和食のミックスのようなお料理でした。
食べるのが苦手な私でも結構いただけました。
おいしかったです。
今度は紅葉刈りに決まりましたが次の幹事さんが決めてくれます。楽しみがいっぱいです。
3か月振りでした。みんなお元気でよかったす。
山田の三平でおこなわれました。
洋食と和食のミックスのようなお料理でした。
食べるのが苦手な私でも結構いただけました。
おいしかったです。
今度は紅葉刈りに決まりましたが次の幹事さんが決めてくれます。楽しみがいっぱいです。
今年も老人クラブの旅行に参加できたことに感謝です。みんなで27人の参加でした。男13人女14人でした。1日めは鈴木歴史館の見学でした。
1909年に創業、1920年に織機メーカーと設立して以来価値ある製品のことばをもとに常にお客様の立場に立ったものづくりに情熱を燃やした会社です。
二輪車、四輪車、船外機など様々な製品を国内他世界各国で生産販売する今日でもモノづくりにかける情熱はかわりません。時代と共に歩んできた創業以来の多くの製品と現在の車づくりの様子が展示されていました。
舘山寺温泉で泊まりました。
2日めは浜名湖遊覧でした。30分間でした。日本で10番目の湖だそうです。いいお天気でおだやかな日でよかったです。東名高速道路が湖のなかをとうりぬけていました。
女城主直虎大河ドラマ館の見学でした。毎週日曜日にテレビで拝見しているのであまりそれ自体は感動しませんでした。
遠江を本拠としたい井伊家の当主・井伊直虎。戦乱の中で当主が次々死んでいき、ただ一人残された姫が直虎という勇ましいなで乱世に立ち向かった。ドラマです。
最期に龍潭寺にお参りししました。22代井伊直盛の1人娘井伊直虎が眠るお墓です。立派なお寺さんでした。
今年もみんなと楽しくできたことに感謝です。かえりには浜松のうなぎパイの会社を見学してたくさんうなぎパイをお土産にかってかえりました。楽しい2日間になってよかったです。
昼まで用事があって帰ったら3時だった。
その足でお墓参りをしました。昨日用意してあった榊とお花とお供え物をもってお参りしました。
お墓は丘の高いところにあるので下からお水をもって上がるのだがこの80のおバーにとって大変ですがボツボツ歩いて
登って行きました。道中隣お方もお参りしてきれいにしていました。
最初は草引きをして周りをきれいにしました。
爺ちゃんとこをきれいにしました。家のお墓、大阪のおじさんとをきれいにしました。
榊とお花とすきなたべものをお供えしました。
お墓に来ると爺ちゃんのことを思い出します。
爺ちゃんが天国に行ってもう8年になりますが、早いですね。
生きているものの務めとして頑張っています。
今年もお参りできてよかったです。
家のお彼岸のお墓に供える準備をしてから、実家のお墓にお参りしました。
周りは彼岸花がアチコチ咲いていました。お彼岸が来るのを知らせてくれますね。
まずは、石碑を洗い周りの草引きをしてからしきみをお供えしました。
線香とお菓子をお供えしました。
弟と一緒にお参りしました。
在りし日の父や母のことがいつも脳裏に浮かんできて涙します。
実家には弟だけがすんでいますが、障害者なので何もできません。
でも1人で生活をしています。
私姉がめんどうをほとんどみています。でもこれも限度があります。
私も80近くなるので老々介護ですね。こちらが世話をしてほしいですよ。
この先、どうするのやと弟に言いましたが返事がありません。みんなしんでしまったらどうするの誰も祀らなかったらどうなるのやのざらしやな?
後を継いでくれる人がいなかったら・・・・・・・・のざらしやな?
いつも思っています。
村は過疎化の時代どうなることやらです。
明日は、自分の家のお墓にお参りします。
やっと葬儀までこぎつけた。
12時からJAの鳥羽の虹のホールでおこなわれました。
朝9時に家をでた。着いたのは11時過ぎでした。
私は、自分の親戚が遠くからおい出てくれるので連絡した人たちを出迎えた。
在りし日の叔父さんが脳裏に浮かんできて写真を見ながら涙した。
葬儀は1時間あまりでおわりました。
沢山の人が故人を偲んでお参りしてくれました。
有難うございました。
骨拾いに行きました。故人の焼いた骨全部を詰めたの持って初七日を御寺さんで拝んでもらいました。
始めは石碑の前に持ってきた骨を骨壺からだして石碑のなかにうめました。
ここで拝んでもらってから本堂でまた拝んでくれました。
故人が三途の川を渡り極楽浄土にこれから旅立つわけです。
南無阿弥陀仏 合掌
帰ったら8時でした。
泰尚さん
朝早くから電話がかかってきた。
危篤状態なので来てほしい。の電話だった。
1か月前に見舞いに行ったおじさんだった。
急いで息子の運転で伊勢まで行った。
1時間余りで着いた。
叔母さんが気が付いた時には、もうすでに声はなかった。
昨日まで元気だったのに今日はもう、ものは言えなくなった状態。
体の中はいったいどうなっているのだろう。普段から健康に気をつけていたのだがみつからなかった。
見つかった時には、死との合間の状態でどうすることも出来なかった状態であった。
血液癌のひとつだった。
おばさんはあっけにとられぼうぜんとしていた。
私たちは、叔母さんを乗せて鳥羽までいったり叔父さんの葬儀の準備に精を出した。
叔母さんも息子が1人なので遠くにいるし、なにも出きないので叔母さんの御兄弟と一緒に準備をしました。
人間の命って本当にはかないなあと思いました。
音羽にも来られないと思うと本当にさみしくなりました。
ご冥福をお祈りします。合掌
実家の弟から電話があり午後3時過ぎに実家に行って栗拾いをしました。
栗の木は老木で私の生まれる前からある栗の木です。
高さ7メートル幅8メートルぐらいある木です。
行ってみるとたくさんの栗が追っていました。
そこで1時間ぐらい拾い続けました。
今年は、たくさん拾いました。
中には虫が食っているのもありました。
4キロぐらい拾いました。
栗の料理をしたいと思います。
主人の弟が突然入院して危篤状態になったので伊勢の病院にお見舞いに行ってきました。
それまでに奥さんから何度もお電話をいただいたので急いで行きました。
当日は,ベットの上でも起きてることができないほどえらそうでした。
でもお話は、できていました。
奥さんから病名をはっきり教えて頂きびっくしました。
多発性骨髄腫でした。
心臓が弱っているようでした。息をするのも体を動かすのもままならない状態でした。
帰りがけに酷い病気やなと息子といいながら帰途につきました。
血液癌だそうです。
帰ってネットで調べましたが恐ろしい血液癌でした。
でもあれから10日あまり今日退院しました。と電話を頂きどうなっているのかなあと思いました。
また、びっくりしました。
輸血をしたら元気になったようです。
どうなっているのか、まったくわからないです。
退院してもいいのかなあと思いました。
病名や病気に未知なものは、全くわかりません。
すごく元気な叔父さんやのにどうしてこんな病気になるのかなと思いました。
すっかり秋の気配の中の稲刈りでした。
息子が朝の9時過ぎから11時ごろまでかかりました。
今年は田んぼがじるくなく刈りやすいといってくれたのがよかったです。
お米つくりは水の管理がたいへんです。がよかったです。できはあまりよくないですがしかたないですね。
この頃お米を作っていても食べないのです。
炭水化物ダイエットなどでたべないのです。
お米を食べてほしいのですが・・・・・・・
745キログラムとれました。
でも7俵ぐらいですね。これは、きぬひかりです。これは農協でかってもらいます。
家で食べる飯米は、こしひかりで隣の家でお米にしてもらいます。
でも、おコメが余ってくるのでこまってもらってもらいます。
家で、いただくこともあります。
いろんな会をもうけて80近いオバー達が楽しんでいます。
私がお嫁りに来てから地区の学校でお世話になった方です。
右も左もわからない若かりし頃からお世話になった方です。
もっとたくさんお世話になった方がいますが、当に亡くなった方、認知症のかたなどいますが
こればかりは仕方ないですね。
今が元気な老人がダべリング出来るだけでも感謝です。
これからは、御迎えがくるまで生きていかなければなりませんがこれからがもっと大変なことが起こると思います。
今現在、元気でも明日はどうなるかわかりません。
でも、これもみんなのおかげでここまでこられたのかなあとおもいます。
なんとか、自分の力で、楽しくやって行けたなあと思いますが、これもどうなることやらです。
でも楽しくダべリングできてよかったです。
お疲れ様でした。
ルドベキア