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和貴の『 以 和 為 貴 』

【再投稿】人間らしく、そして日本人らしく・・・

「近頃めっきり息苦しい世の中になったもんだ!」、言葉は違っていても、そう感じられる人が多いと思いますが、大袈裟に表現するつもりはありませんが、私たち人間には与えられた "何かしら" があります。

そして、その "何かしら" を失われてしまいますと、人間の脳や神経はストレスを感じやすくなり、病に倒れることがあります。


さて、私たち人間は、この地球の大自然や、太陽や月の恵みによって生命をいただいております。またそれは、大宇宙の恵みへと繋がるわけではありますが、そこまで行くと話しが大袈裟になりすぎて、なにがなにやら私の小さな脳みそでは整理できかねますので、割愛させていただきます。

なんにしろ、私たち人間の身体というのは、大自然からの "借り物" に過ぎないわけであり、 "死" というものに対し、借り物に過ぎない肉体を、大自然へ還すという考え方が、まさに「道理」や「真理」と言えるのではないでしょうか。

借りれば還すのは、当然のことですから、純粋な気持ちで死と向き合えるようにもなれます。

しかしながら、人間は脳の発達と共に文明を築くことによって、次第に純粋な気持ちというものが欠けてくるようになります。

地位、名誉、カネ、食料・資源(領土拡大)、老い(死)への恐怖など、その欲望は留まることをしらず、いつしか人間は、共食いの如く殺し合うようになり、そして私たち人間の、本来の生みの親ともいうべき大自然をも、壊しはじめるようになります。

また、人間は、さらに脳が発達すると、文明を巨大化させ、国家という概念を生み出すようになり、国家は帝国へと発展し、侵略や強奪は正義の名のもとに正当化され、欧州や中東を中心に、戦争や紛争が勃発し始めるようになります。

同じ頃、東洋でも支那を中心とした巨大な帝国が誕生するようになりました。

こうした巨大な帝国が存在するような地域では、さらに数多くの国家が建国されるようになり、それまでは "豪族" という有力集団が各地域を支配していた日本もまた、後に国家の樹立を迫られることとなります。

欧州や中東では、尚も共食いのような殺し合いをつづけており、領土内の発展・統制を強化するために、大自然を破壊し、資源や奴隷を確保するためにアフリカや東南アジアやアメリカ大陸へと進出し、もはや純粋な人間の姿というものは完全に失われていました。

白人至上主義」という言葉通り、まさに世界は白人たちのやりたい放題だったわけです。


一方日本では、聖徳太子が国家の "礎" ともいうべき「十七条憲法」を制定され、日本古来の伝統規範である神道、そして大陸より伝わった佛教儒教とが融和され、「」の精神というものが、後の世も脈々と受け継がれていくための土台を拵えられました。

そして、支那との交流を得ながらも、独自の日本文明を発展しつづけ、その歴史は現在、世界最古の国家としていまに至るわけです。

そんな中、永い歴史というものは、 "日本人らしさ" というものも育んできました。

現在、先進国といわれる国々のなかで、この "らしさ" を有する国家はおそらくは日本だけだと思われます。

他の先進国といわれる国々は、建国の歴史は浅く、さらには移民をくりかえしてきた結果、古くその地に留まることができず、つまりは、 "らしさ" を育むことができなかったのです。

しかし日本は違います。島国だったという理由もそうでしょうが、私自身が日本人だからといって贔屓(ひいき)にしているつもりもありません。

それは、 "人間らしく生きる" ということに拘わり続けた結果、明治維新後には、 "日本人らしく生きる(=国粋心や愛国心など)" ことへと発展し、白人が支配する地域を解放しつづけ、人種差別がない世界を実現するため、私たちの先人たちが、その身を犠牲にしながら戦い続けてきたことを考えた場合、どうしても、この日本という国の存在を否定することはできないからです。


さて、この世の "社会" という言葉には、大きく二つに分類されると考えます。 ① 人間を中心として考える社会、② 大自然(宇宙)を中心として考える社会です。

現在、世界の多くの国々は前者の(① 人間を中心として考える)社会の枠組みのなかに組み込まれています。さらには、多くの国民は "市民" と称され、法(罰則)によってその支配下に措かれてしまっており、現在の日本もまた、前者が主体となった社会の枠組みに組み込まれています。

しかしながら、こうした社会が主流となっているということは、本来あるべき「人間の生き方」とは言い難く、また、この国の憲法や法律によって、雁字搦めにされているのです。

さらには、憲法に明記されている「権利」という言葉も、フェミニストや旧社会党系の左翼の人々(国連憲章主義者)によって都合よく解釈されてしまい、日本人が本来もっている、 "人間らしさ" というものが失われた結果、

人間は大自然の恵みなくしては生きていけない」を主語とした、人間らしく生きる権利から「人間が生まれながらにしてもつ権利」を主語とした人間として生きる権利』

へとすり替えられ、それまでの日本人の心にあった「権利」に対する感謝の心(義務を果たす)が、権利に対する当たり前の心(義務を果たさない)へと変貌してしまったのです。

ですから、人間として、日本人として、ということも大事ですが、まずは、人間らしく、そして日本人らしく生きるということがどれほど尊く、そして有難いものであるのかを、今一度、深く考えてみようかなと思います。



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