論語を現代語訳してみました。
八佾 第三
《原文》
子語魯大師樂曰、樂其可知也。始作、翕如也。從之、純如也、皦如也、繹如也。以成。
《翻訳》
子 魯〔ろ〕の大師〔たいし〕に楽〔がく〕を語〔つ〕げて曰〔のたま〕わく、楽は其〔そ〕れ知る可〔べ〕きなり。始〔はじ〕め作〔おこ〕すや、翕如〔きゅうじょ〕たり。之〔これ〕を従〔はな〕って、純如〔じゅんじょ〕たり、皦如〔きょうじょ〕たり、繹如〔えきじょ〕たり。以〔もっ〕て成〔な〕る、と。
子 魯〔ろ〕の大師〔たいし〕に楽〔がく〕を語〔つ〕げて曰〔のたま〕わく、楽は其〔そ〕れ知る可〔べ〕きなり。始〔はじ〕め作〔おこ〕すや、翕如〔きゅうじょ〕たり。之〔これ〕を従〔はな〕って、純如〔じゅんじょ〕たり、皦如〔きょうじょ〕たり、繹如〔えきじょ〕たり。以〔もっ〕て成〔な〕る、と。
《現代語訳》
孔先生が、魯国の大師(音楽長官)の前で、詩を奏〔かな〕でてから、次のように仰られました。
詩を奏でるときは、その全てを心得ることが大切ですぞ。奏ではじめれば、気持ちはぐっと盛り上がり、純粋な心をもって、詩の意味を深くかみしめる。
そして、聴き手にもそれが伝わっておれば、甲斐〔かい〕もございましょうぞ、と。
※ 孔先生とは、孔子のことで、名は孔丘〔こうきゅう〕といい、子は、先生という意味
※ 原文・翻訳の出典は、加地伸行大阪大学名誉教授の『論語 増補版 全訳註』より
※ 現代語訳は、同出典本と伊與田學先生の『論語 一日一言』を主として参考にしているが、決して両先生を否定するものではない