君子者か、色荘者か
「子張 善人の道を問う。子 曰(のたま)わく、迹(あと)を踐(ふ)まず、亦 室(しつ)に入らず、と。子 曰(のたま)わく、論 篤(とく)なるのみに是れ与(くみ)せば、君子者か、色荘者(しきそうしゃ)か、と。」
■その意味は?
子張が善人の進む道について、孔子(先生)に尋ねた。
『善人は、〔自分が生まれたときからの人柄そのままに進み、世にあって人としてまちがいは冒さない。しかし、〕聖人の歩んだ迹〔道〕を学習しないで人生を歩むため、〔聖人が体得した〕ここぞという妙処を知らないままとなる。〔本物ではない〕』と。
さらに、
『〔善人に対する場合と同じく、その人〕の意見がりっぱだからというだけで、その人物を信用するならば、本物の教養人なのかな。見かけだけの者かな。〔区別が困難だ〕』と。
(加地伸行全訳注「論語」より)
■感想
俗にいう "善人" と言われる人々の言というものが、真実なのか、虚偽なのか、その判断はとても困難なものである。
ならば、果たして自分自身というものが、その判断ができるに至っているのか否か、まずはそうしたことを深く考えていくとしよう。