四天王寺 第百十世管長 出口順得氏のお話より・・・
以下。
【第二回】自分の国に誇りをもつということ
前回、聖徳太子は千四百年以上も昔に生きた人というお話しをしました。その人生は短く、わずか四十九年間でした。
不幸な出来事が多い一生だったかもしれません。
十四歳の時、お父様の用明天皇が重い病気にかかります。聖徳太子は、夜も眠らず付きっきりで一生懸命に看病しましたが、数日後、ついにお父様は亡くなってしまいまいした。悲しんでいる間もなく、すぐに戦争が始まりました。大陸から伝えられた仏教をこの国に取り入れようとする人々(崇仏派)と、それに反対する人々(廃仏派)の間で起こった戦争です。
聖徳太子はお父様が仏教を信仰していたせいもあり、幼い頃から仏様の教えの有難さを分かっていました。ですから、崇仏派の一員として戦いに参加し、廃仏派のリーダーである物部守屋(もののべもりや)に勝利しました。
この戦いに勝った崇仏派のリーダーは蘇我馬子(そがのうまこ)といい、聖徳太子にとっては大伯父(父親の伯父)さんにあたります。
蘇我馬子は無敵になったことで自分の思い通りにこの国を動かそうとしました。馬子は自分の甥にあたる泊瀬部(はっせべの)皇子が天皇になるように手配し、崇峻天皇としましたが、その後も天皇を無視して勝手な行動を続けました。しかも、崇峻天皇が自分に反対しているという噂を聞いた馬子は天皇を暗殺し炊屋姫(かしきやひめ)=額田部皇(ぬかたべのひめみこ)という女性を天皇に即位させ、推古天皇としました。わが国最初の女帝です。
推古天皇は即位するとすぐに、実際に政治を行う“摂政”という役をつくり、用明天皇皇子であった聖徳太子を任命しました。聖徳太子が二十歳の時のことです。
わずか二十歳の若者が天皇を暗殺した蘇我馬子の上に立ち、国づくりをするようにと推古天皇から頼まれたわけであります。
今の言葉でいうなら、大変なプレッシャーだったでしょう。
聖徳太子の心を支えたもの、それは仏教でした。
仏様の教えがあったからこそ聖徳太子はプレッシャーを跳ね除け、新しい制度や憲法をつくり、この国の基礎を築いていったわけであります。摂政として聖徳太子が行った一番の大きなことは中国と対等外交を結んだことだと思います。
当時の中国は「隋(ずい)」といいました。
日本や朝鮮半島のどの国より進んだ技術力と軍事力をもっていました。ですから、周辺の国々は隋に沢山の贈り物を届け、代わりに他の国が攻めて来たとき守ってもらうという約束をしていたのです。聖徳太子が摂政になるまで、日本も隋とはそんな関係でした。
しかし、聖徳太子は「どんな国も人も対等でなければいけない」という考えを持っていました。守ってもらうということは、国として一人歩きができないということです。
皆さんは“遣隋使”という言葉を知っていますか。これも、聖徳太子が始めたことの一つです。
日本から大陸に使者を送り、様々な技術や文化、仏教の教えなどを学ばせ、持ち帰った知識で日本をより豊かな国にしようと聖徳太子は考えました。十八年間で五回以上の使者を送り、さらに隋が滅ぼされ、唐(とう)に変わってからも遣唐使が送られました。合計三百年間に渡って、日本は中国から様々な知識を学んでいたのです。
二回目の遣隋使は六○七年の時でした。そのとき聖徳太子は使者の小野妹子(おののいもこ)に一通の手紙=国書を渡しました。隋の皇帝・煬帝(ようだい)に宛てたものです。
「日出づる処の天子、書を日没する処の天子にいたす。つつがなしや」
天子から天子に書を送るという書き出しになっています。つまり、あなたの国も私の国も対等なんですよ、ということを聖徳太子は告げています。
煬帝は読むなり、「蛮夷(ばんい)の書、無礼なり!こんなものを二度と自分に見せるな」と怒りました。
蛮夷とは野蛮な国という意味です。大陸からみて日本はまだ文明の発達していない未開国でした。だから煬帝は「無礼」といい、怒りました。
それなのに翌年、隋の皇帝は返礼のために十二人もの使者を日本に使わしています。その時期、朝鮮半島の国の一つと隋が戦争状態にあったこともあり、これ以上周囲に敵を増やしたくないという計算が皇帝にあったようです。聖徳太子は、その辺の事情をよく知っていて、今が対等外交を結ぶ絶好のタイミングと判断し、国書を届けたのかも知れません。
しかし、聖徳太子は決してチャンスだからというだけで先の国書を書いたのではないと思います。
聖徳太子は、遣隋使を送るまでに二つの大きな改革を日本で行なっています。
一つは「冠位十二階の制」といいます。
それまで豪族出身の人々しか役人になれなかったしきたりを改め、才能のある者なら誰でも役人に取り立てるという制度に変えました。つまり身分制度という垣根を無くしたわけであります。
そして、もう一つは「十七条憲法」の制定です。
ひとはそれぞれに色んな考えを持って行動します。しかし、正しいこと、正しくないことの基準、つまり“道徳”というものがその時代はすごく曖昧でした。ですから、聖徳太子は神道や仏教、儒教の教えなども取り入れながら、社会において人は何を一番大切にするべきかということを十七の言葉にして国民に示されました。
その内容については次の機会に詳しくお話ししていきたいと思います。
とにかく、二つの大きな改革を行い、国として纏まりが出来たことを、聖徳太子は実感された。だからこそ、日本よりもはるかに強大な隋に対して、堂々と向き合う覚悟が出来たのではないかと思います。
国の力は国土の大きさではありません。どれだけ国民の“和”があるかなのです。
聖徳太子の知恵と、大きな勇気があったからこそ、私たちの国は、独り立ちすることが出来ました。以来、日本は一度も侵略を受けず、今日に至っています。
国も人も全て平等であるべきという聖徳太子の考えが今の私たちの豊かな暮らしに繋がっているのです。
つづく・・・。