昨年4月に投稿させていただいた記事を、動画にしてみたのですが、今回は画像や動画編集というものにかなり時間を費やしてしまい、完成したときにはもう、ぐったり状態でした…(;´・ω・)
昭和を考える 『学校教育』 【Thinking about Showa "School Education"】
昭和という時代は64年あまりの歳月でしたが、今を考えますと本当に目まぐるしい時代でした。
筆者が生まれた昭和49年ごろは、昭和の時代の中でも比較的穏やかな時代だったと自負しておりますが、昭和初期から64年の年月にあって、世代ごとにその考え方なども大きく違っていましたから、まさに、日本人がひとつに纏まれない要因のひとつだろうとも思えます。
そして、こうした現象は現在のわが国の政治状況にも顕著にみられ、さまざまな政治政党が入り乱れるようになりました。しかも、こうした世代別政党だけでなく、近年では地域政党や宗教政党なども出現するという有り様となっており、日本人はすっかりバラバラ状態と化してしまいました。
さて、政治云々はさておき、今回は昭和における学校教育を考えてみようかなと思いますが、まず筆者として感じることは、昭和における学校教育には、大きく4つに分類されるのはないだろうかと思われるのです。それは、
① ~終戦
② 終戦~大阪万博
③ 大阪万博~ゆとり教育
④ ゆとり教育~
とこんな風にですが、筆者は単なる凡人ですから、専門的なことはまったくわかりませんので、そこはご勘弁願います。
では、筆者なりに昭和の学校教育の変化というものを考えていこうと思います。
① 終戦まで・・・
昭和という時代が幕開けしたころのわが国はというと、明治以降からずっと富国強兵政策による強くて逞しい人材育成のための教育が施されてきました。江戸時代から続いた寺子屋制度もなくなり、フランス式の学校制度が採り入れられ、あらゆる学問が子供から大人まで広がっていくことになります。
昭和初期のころのわが国はというと、そんなフランス式の学校教育も定着し、義務教育によって子供たちは元気よく学校へ通っていたことでしょう。
しかし、中には貧しくて学校へいけない子供たちもいましたが、そんな子供たちもいち早く社会人となり家計を助け、学校へ行かなくとも逞しく育っていったのでした。
そして、学校内での先生方は子供たちに対しては相当厳しかったことでしょう。なにしろ何時戦争に備えなくちゃわからない状況下にあって、その危機意識は先生方だけでなく、親御さんやその子供たちも深く理解していたことでしょうから。
そうした危機意識というのは、米国との戦争が囁かられるようになった昭和16年ごろよりさらに増していくことになります。
筆者自身が戦前教育を施された方々から、直接聞いたお話を思い出してみると、大東亜戦争開戦前後に学校教育を受けられた方々の話しの内容に違いがあることに気付かされます。
開戦前の、昭和16年よりも前に戦前教育を施されていた方の多くは、当時の学校教育に否定的なことを仰られませんでしたが、戦時中に学校教育を施された方の多くは否定的に仰られていました。それがとても印象的であります。
しかし、ひとりの「人間」というものを育てるという意味においては、皆さん方は肯定的に仰られていました。
尚、筆者自身としましては、このころの学校教育に育まれた人々の想いというものを、鹿児島県の知覧にある平和会館で目の当たりにさせていただき、己自身の不甲斐なさに涙があふれました。
その後、これからもずっと、私たち日本人は、こうした方々のお陰で現在があるということを絶対に忘れてはならないと思うようになりました。
② 終戦から大阪万博まで・・・
私たち日本人にとって、米国に広島・長崎に原爆が投下され、多くの老若男女が虐殺されたことは、「痛恨の極み」としか言えない歴史事実であります。大都市では空襲により家々が燃やされ、沖縄ではたくさんの方々がその犠牲となりました。
本土も沖縄も北海道も日本国民すべてが悲痛の叫びをあげながら、昭和20年8月15日、ようやく大東亜戦争は終焉を迎えることとなります。
事実、日本は米国の占領下におかれることになり、多くの米兵がわが国に駐留し、あらゆる事柄が塗り替えられることとなったのですが、学校教育も例外ではなく、それまでの教育勅語は廃され、学校制度も大きく見直されることになりました。
占領下のわが国において施行されることとなった旧教育基本法は、昭和22年以降、その効力が発揮されていくことになります。
しかしながら当時の先生方の多くは、新しく施行された教育基本法であっても、戦前教育を "本" とする教育を子供たちに施しておりました。
その証拠として、戦前と同じように子供たちを厳しく指導し、また、親御さんたちも、そんな先生方を責めることはありません。先生に叱られれば、同じように親御さんにも叱られる・・・。
そうした環境の中で育った子供たちもまた、強く逞しいといえるのではないでしょうか。
しかしながら敗戦間もないわが国は、世界の国々と比較しても、下から数えてもよいほどの貧しさに陥っていました。また、犯罪も横行し、貧しい子供たちの中には、そうした犯罪行為に身を委ねるしかない者まで現れてきます。
当時の学校教育は、昭和の歴史の中ではもっとも学校にいけない子供たちがいたといってもよく、しかしながら、生きるために必死だった時代、この頃を少年・少女期だった人たちの話しを聞きますと、「え!?子供の身でありながら、そんな経験までしたの?」といつも驚かされたものです。
そして、貧しさの中には「夢」や「希望」も膨らんできます。敗戦という絶望のどん底にまで落とされた国民には、「諦め」という文字はなかったでしょうから、その後の発展はめざましく、終戦19年目の昭和39年には東京オリンピックが催されるにまで至り、さらには交通の便なども整備され、昭和45年には大阪万国博覧会が催されるまでに至り、まさに敗戦直後の貧しさを強く逞しい精神でもって乗り越え、世界第2位の経済大国へと大発展することとなったのでした。
そのような学校教育の中でも、世の中の大きな変化とともに、子供たちの意識も少しづつ変化していくことになり、西洋の音楽や映画などがわが国にどんどんと輸入されることで、さらなる意識改革が施されることになったのでした。
しかしながら、世間はそうした若者たちを「不良」という表現で呼び排除しようとしましたが、時代の流れはこうした「不良」を持ち上げ、しかしまた高学歴者をも同時に持ち上げ、昭和30年~40年代にかけての学校教育は、相当に荒んでいたものと思われます。
そうした荒んだ学校教育のなかにあっても、不良と呼ばれた子供たちは、戦前と同じように上下関係を重んじていましたから、善悪というものをきちんと区別することができる「けじめ」というものを大事にしていたようにも思えます。
③ 大阪万博~ゆとり教育まで・・・
この頃になると、高度成長期も一段落し、それまでの勤労一辺倒の時代から、家庭を大事にする風潮が見られるようになってきました。
日本各地には遊園地やレジャーランドなどが建設され、多くの子供連れの一家が楽しんでいました。そんな時代に筆者は生まれましたが、筆者の家庭内はそんな生易しい環境ではありませんでしたから、テレビの前に座っては「いいな~」、同級生の話しを聞いては「いいな~」でありました。
と、筆者自身のことはさておき、この頃の学校教育はというと、戦後に施行された旧教育基本法の効力というものがようやく出始めてきた頃と言っていいのではないでしょうか。
道徳の授業では「人権」というものが教えられるようになり、町のあちこちにも「人権〇〇宣言都市」だとか「平和〇〇宣言都市」だとかが書かれた立て看板を数多く見受けられるられるようになってきました。
さらに感じられるのは、この頃の学校教育の先生方には、戦前からの教育者と、戦後教育の中で育った教育者との意見の相違みたいなものがあったのではないか、ということであり、昭和50年代に放送された「金八先生」を改めて観ますと、なんとなくそうした背景が窺えてくるのです。
しかしながら、戦前教育のように子供たちを厳しく教える方が良いのか、はたまた「個人の尊厳」を重視した教え方が良いのか、その判断がままならない状況がまさに、昭和40年代後半から昭和60年代あたりまで続いたと考えられるのです。
先生方もこの頃は、ある意味迷いも多かったでしょうが、ある意味自由な教鞭もできた時期であったとも思われますから、筆者が学んだ先生方というのは実に個性豊かでした。
④ ゆとり教育~
実際に、このゆとり教育が学習指導要綱に反映されましたのは、平成になってからではありますが、日教組が昭和47年ごろよりずっと提唱していたことを受け、一部学校などでは昭和50年代頃において、ゆとり教育が子供たちに施されていたと考えられます。
筆者自身が明確に、この「ゆとり教育」というものを施された覚えはありませんが、改めて昭和の学校教育を考えてみますと、筆者もまた「ゆとり世代」であると実感させられます。
それは、戦中戦後の子供たちを取り巻く学校教育を考えたならば、高度成長期以降の豊かになったわが国を思えば、なんら不満を感じることはないのですから。
しかし学校は、そうした戦中戦後の子供たちの実状を教えようとはしません。世間においても同じであります。
戦中戦後を語れば「時代遅れ」と罵られる始末なのでした。
筆者が生まれた昭和49年ごろは、昭和の時代の中でも比較的穏やかな時代だったと自負しておりますが、昭和初期から64年の年月にあって、世代ごとにその考え方なども大きく違っていましたから、まさに、日本人がひとつに纏まれない要因のひとつだろうとも思えます。
そして、こうした現象は現在のわが国の政治状況にも顕著にみられ、さまざまな政治政党が入り乱れるようになりました。しかも、こうした世代別政党だけでなく、近年では地域政党や宗教政党なども出現するという有り様となっており、日本人はすっかりバラバラ状態と化してしまいました。
さて、政治云々はさておき、今回は昭和における学校教育を考えてみようかなと思いますが、まず筆者として感じることは、昭和における学校教育には、大きく4つに分類されるのはないだろうかと思われるのです。それは、
① ~終戦
② 終戦~大阪万博
③ 大阪万博~ゆとり教育
④ ゆとり教育~
とこんな風にですが、筆者は単なる凡人ですから、専門的なことはまったくわかりませんので、そこはご勘弁願います。
では、筆者なりに昭和の学校教育の変化というものを考えていこうと思います。
① 終戦まで・・・
昭和という時代が幕開けしたころのわが国はというと、明治以降からずっと富国強兵政策による強くて逞しい人材育成のための教育が施されてきました。江戸時代から続いた寺子屋制度もなくなり、フランス式の学校制度が採り入れられ、あらゆる学問が子供から大人まで広がっていくことになります。
昭和初期のころのわが国はというと、そんなフランス式の学校教育も定着し、義務教育によって子供たちは元気よく学校へ通っていたことでしょう。
しかし、中には貧しくて学校へいけない子供たちもいましたが、そんな子供たちもいち早く社会人となり家計を助け、学校へ行かなくとも逞しく育っていったのでした。
そして、学校内での先生方は子供たちに対しては相当厳しかったことでしょう。なにしろ何時戦争に備えなくちゃわからない状況下にあって、その危機意識は先生方だけでなく、親御さんやその子供たちも深く理解していたことでしょうから。
そうした危機意識というのは、米国との戦争が囁かられるようになった昭和16年ごろよりさらに増していくことになります。
筆者自身が戦前教育を施された方々から、直接聞いたお話を思い出してみると、大東亜戦争開戦前後に学校教育を受けられた方々の話しの内容に違いがあることに気付かされます。
開戦前の、昭和16年よりも前に戦前教育を施されていた方の多くは、当時の学校教育に否定的なことを仰られませんでしたが、戦時中に学校教育を施された方の多くは否定的に仰られていました。それがとても印象的であります。
しかし、ひとりの「人間」というものを育てるという意味においては、皆さん方は肯定的に仰られていました。
尚、筆者自身としましては、このころの学校教育に育まれた人々の想いというものを、鹿児島県の知覧にある平和会館で目の当たりにさせていただき、己自身の不甲斐なさに涙があふれました。
その後、これからもずっと、私たち日本人は、こうした方々のお陰で現在があるということを絶対に忘れてはならないと思うようになりました。
② 終戦から大阪万博まで・・・
私たち日本人にとって、米国に広島・長崎に原爆が投下され、多くの老若男女が虐殺されたことは、「痛恨の極み」としか言えない歴史事実であります。大都市では空襲により家々が燃やされ、沖縄ではたくさんの方々がその犠牲となりました。
本土も沖縄も北海道も日本国民すべてが悲痛の叫びをあげながら、昭和20年8月15日、ようやく大東亜戦争は終焉を迎えることとなります。
事実、日本は米国の占領下におかれることになり、多くの米兵がわが国に駐留し、あらゆる事柄が塗り替えられることとなったのですが、学校教育も例外ではなく、それまでの教育勅語は廃され、学校制度も大きく見直されることになりました。
占領下のわが国において施行されることとなった旧教育基本法は、昭和22年以降、その効力が発揮されていくことになります。
しかしながら当時の先生方の多くは、新しく施行された教育基本法であっても、戦前教育を "本" とする教育を子供たちに施しておりました。
その証拠として、戦前と同じように子供たちを厳しく指導し、また、親御さんたちも、そんな先生方を責めることはありません。先生に叱られれば、同じように親御さんにも叱られる・・・。
そうした環境の中で育った子供たちもまた、強く逞しいといえるのではないでしょうか。
しかしながら敗戦間もないわが国は、世界の国々と比較しても、下から数えてもよいほどの貧しさに陥っていました。また、犯罪も横行し、貧しい子供たちの中には、そうした犯罪行為に身を委ねるしかない者まで現れてきます。
当時の学校教育は、昭和の歴史の中ではもっとも学校にいけない子供たちがいたといってもよく、しかしながら、生きるために必死だった時代、この頃を少年・少女期だった人たちの話しを聞きますと、「え!?子供の身でありながら、そんな経験までしたの?」といつも驚かされたものです。
そして、貧しさの中には「夢」や「希望」も膨らんできます。敗戦という絶望のどん底にまで落とされた国民には、「諦め」という文字はなかったでしょうから、その後の発展はめざましく、終戦19年目の昭和39年には東京オリンピックが催されるにまで至り、さらには交通の便なども整備され、昭和45年には大阪万国博覧会が催されるまでに至り、まさに敗戦直後の貧しさを強く逞しい精神でもって乗り越え、世界第2位の経済大国へと大発展することとなったのでした。
そのような学校教育の中でも、世の中の大きな変化とともに、子供たちの意識も少しづつ変化していくことになり、西洋の音楽や映画などがわが国にどんどんと輸入されることで、さらなる意識改革が施されることになったのでした。
しかしながら、世間はそうした若者たちを「不良」という表現で呼び排除しようとしましたが、時代の流れはこうした「不良」を持ち上げ、しかしまた高学歴者をも同時に持ち上げ、昭和30年~40年代にかけての学校教育は、相当に荒んでいたものと思われます。
そうした荒んだ学校教育のなかにあっても、不良と呼ばれた子供たちは、戦前と同じように上下関係を重んじていましたから、善悪というものをきちんと区別することができる「けじめ」というものを大事にしていたようにも思えます。
③ 大阪万博~ゆとり教育まで・・・
この頃になると、高度成長期も一段落し、それまでの勤労一辺倒の時代から、家庭を大事にする風潮が見られるようになってきました。
日本各地には遊園地やレジャーランドなどが建設され、多くの子供連れの一家が楽しんでいました。そんな時代に筆者は生まれましたが、筆者の家庭内はそんな生易しい環境ではありませんでしたから、テレビの前に座っては「いいな~」、同級生の話しを聞いては「いいな~」でありました。
と、筆者自身のことはさておき、この頃の学校教育はというと、戦後に施行された旧教育基本法の効力というものがようやく出始めてきた頃と言っていいのではないでしょうか。
道徳の授業では「人権」というものが教えられるようになり、町のあちこちにも「人権〇〇宣言都市」だとか「平和〇〇宣言都市」だとかが書かれた立て看板を数多く見受けられるられるようになってきました。
さらに感じられるのは、この頃の学校教育の先生方には、戦前からの教育者と、戦後教育の中で育った教育者との意見の相違みたいなものがあったのではないか、ということであり、昭和50年代に放送された「金八先生」を改めて観ますと、なんとなくそうした背景が窺えてくるのです。
しかしながら、戦前教育のように子供たちを厳しく教える方が良いのか、はたまた「個人の尊厳」を重視した教え方が良いのか、その判断がままならない状況がまさに、昭和40年代後半から昭和60年代あたりまで続いたと考えられるのです。
先生方もこの頃は、ある意味迷いも多かったでしょうが、ある意味自由な教鞭もできた時期であったとも思われますから、筆者が学んだ先生方というのは実に個性豊かでした。
④ ゆとり教育~
実際に、このゆとり教育が学習指導要綱に反映されましたのは、平成になってからではありますが、日教組が昭和47年ごろよりずっと提唱していたことを受け、一部学校などでは昭和50年代頃において、ゆとり教育が子供たちに施されていたと考えられます。
筆者自身が明確に、この「ゆとり教育」というものを施された覚えはありませんが、改めて昭和の学校教育を考えてみますと、筆者もまた「ゆとり世代」であると実感させられます。
それは、戦中戦後の子供たちを取り巻く学校教育を考えたならば、高度成長期以降の豊かになったわが国を思えば、なんら不満を感じることはないのですから。
しかし学校は、そうした戦中戦後の子供たちの実状を教えようとはしません。世間においても同じであります。
戦中戦後を語れば「時代遅れ」と罵られる始末なのでした。
尚、現在、筆者を含め多くの中年層や若年層が、ネットなどを駆使し真実を追求し、昭和期におけるわが国の過ちを知り、糺していかなければ、と考える人たちもいます。
こうしたことからも、この「ゆとり教育」がわが国に根付いてしまったことで、まさに米国占領時に施行された旧教育基本法の精神というものが、わが国の学校教育現場に開花してしまったことの表われであり、それは、わが国の学校教育の崩壊を招いてしまったといっても過言ではありません。
最後に、「学校教育」が崩壊したと考えられる今、もう一度、原点を見つめ直す時期だと考えますが如何でしょうか。