赤ちゃんポスト①につづき、今回もこの問題を筆者なりに考えていこうと思う。
前回は、なぜ赤ん坊を置き去りにするのか?なぜ幼い子供を虐待するのか?というテーマについて、あれこれ見解を述べてみたが、改めて読み返してみると、至極当然のことをただ述べているとしか思えず、ふと笑けてしまった。
『親の愛情、忍耐を鍛える』なんてことは、わが国の歴史を振り返ってみても、保育・教育のあり方の基礎の基礎ともいえるわけで、そんなことをいちいち筆者ごときが語るべきことでもなかった、とつくづく思う。
しかしながら物質的豊かさの中で、「失われた何か」「忘れてしまった何か」の"何か"を考えた時、子供たちを取り巻く環境の変化というものを一番に想い浮かべてしまうはずである。ところが、戦後70年の中で、われわれ日本人の幼少期の思い出ですら、世代毎に大きく変わる時代に突入してしまい、われわれの祖父母や先人たちが遺してくださった"モノ"が、全く通用しなくなってしまったことに、残念さがこみ上げてくる。
さらには親殺し、子殺し、兄弟殺し、そんなニュースが飛び交う昨今、通称『平和国家』といわれる日本国でありながら、"なぜ?"と疑問を抱くことはごくごく普通の感情ともいえよう。
そして、通称『平和国家』を唱えるものの多くが、「昔よりも凶悪犯罪は減り、日本人のモラルは向上している」という詭弁を抜かすのであるが、警察庁が公表するデータ『被疑者と被害者との関係が、親族間における検挙件数およびその割合』を見てみてもわかるように、単純な数値だけを追えばなるほど確かに減っていると思えるが、親族間殺害の割合を見れば、たしかに増えていることであり、犯罪件数そのものだけを見て、「減少しているのだから、日本人のモラルは向上しているのだ」ではないのである。
さらには、犯罪数自体が減った背景には、防犯カメラの設置やセキュリティー強化という技術的向上がもたらした結果が多数を占めていることであり、日本人そのもののモラルが向上したなどとは到底いえることではない。
このような現代の日本社会にあって、突如として吹き上がりつつある『赤ちゃんポスト』の設置について、その問題を筆者なりに考えまとめていこうと思うわけであり、今回は『赤ちゃんポストに預けられたあとの子供たち』というテーマについて考えてみたい。
■年々増加する里親と、里親に預けられる子供たち
現代日本社会の暮らしの中で、なかなか里親というものを考えられる機会が少なく、厚生労働省の公表するデータ『里親制度について』を見るまでは、里親制度なんてものはすっかり消滅しているものと思っていた。というよりも某宗教団体などが主体となって行っているような、ワンちゃんネコちゃんの里親募集くらいしか想像できなかった。
ところがこの数年来だけでも相当数の登録里親や委託児童が増加しているのである。
こうした背景からみても、少しでも救える生命があれば救ってやりたいと思うのは世の常ともいえよう。そして実際に児童を快く受け入れられ、育てられている里親の方々に対しては、本当に頭が下がる思いである。
そして、こうした問題を考えることは、少子化問題やそれに関わるあらゆる諸問題を考えるきっかけともなっていくであろう。
■性の乱れは国家の乱れ
テーマとは離れ、少し話題が元に戻ってしまうのだが、赤ん坊や子供の置き去りや虐待以前に、"性"そのものを考えなければならないと思い、少しまとめてみることにする。
何年か前に、あるSNSサイトで「性の乱れは国家の乱れ」という題材を提示したところ、たくさんの方々から貴重なご意見を承ったことがあり、その中で、ある御人がこのように仰られた。『性の欲望の暴走。人間の持つ訴求力ゆえに、より高い快楽を求める事で、心の発現に従ってきた肉体の欲望が、人間が新たに作り出した強い欲望に引き寄せられ、心の欲求の範疇を超えてしまう』と。
性とは則ち本性であり、これはあらゆる生命体に宿るものである。草木なら根を出し葉を広げ、鳥なら空を飛ぶ。当然のこととして人間にも性が宿っている。そして人間が本性のままに生きることは決して悪いことではなく、これを性善説といい、しかし時として人間は欲望のままに本性をさらけ出そうとするが、このとき心の発現によってそれを抑え込もうとする。それが理性である。これはある意味、人間特有のものともいえるが、集団で生きる生命体すべてに共通していえることでもある。
"心"あるものであるならば、周囲を混乱に招きかねないことを自制する能力が発達しているといえるが、"心"なきものは自制する能力が欠けているともいえ、やって良いこと悪いことの見極めというものに、大きな差が生じてしまうことになる。
従って、社会問題を引き起こすような"性の乱れ"というものは、国家をも乱すという意味においては、置き去りや虐待といった問題だけでなく、あらゆる事柄にも精通するともいえよう。
■匿名性の問題点
"匿名性"、この問題を考えた時、なんとなく感じたことは、赤ん坊の尊い生命を救うということよりも、『赤ちゃんポスト』を利用しようとする親に対して、罪悪感からの開放みたいなものに重きをおいているのではないだろうか、ということだ。
現在の日本の法律には保護責任者遺棄罪という罰則規定があり、むやみに置き去りにすれば、刑罰によって処されるようになっており、このことを考えてみても分かるように、置き去り行為は立派な犯罪行為なのである。
しかし、この場合の法律の内容としては、「〔赤ん坊や児童を〕生命に危険な場所に移転させた場合(遺棄)」と明記されている通り、ポスト自体が生命に危険な場所でないかぎりは、この法律は適用されないのである。こうしたことを見込んでポスト内部には、空調設備が完備され、決まった時間毎に関係者がポストを確認する体制を敷かれているということである。
合法的ともいえる『赤ちゃんポスト』の設置及び匿名性というのは、それを利用しようする親にとってみれは、これほど有難いものはない。しかしポストに預けられる赤ん坊にとってみれば、実に嘆かわしいことといえるが、生命が救えるのならば、と考えれば、止むなしと捉えるほかない。
『"心"のない親たちによって育児放棄された赤ん坊が、"心"のある里親に育てられる。』なんてことが当たり前の世の中になってしまえば、それこそ倫理もへったくれも無くなってしまうことになり、やがては争いの元にもなりかねない。
本当に悩ましい問題であり、こうした判断は今後の成り行きに任せるしかないわけであるが、できることならば、流れゆく雲が暗雲ではなく、明るく爽やかな雲であってほしいものである。
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