歯科医物語

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「8月15日知らない若者も…」東京都戦没者追悼式

2021-08-15 23:07:27 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
「8月15日知らない若者も…」東京都戦没者追悼式
8/15(日) 19:05配信
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All Nippon NewsNetwork(ANN)
 東京都でも戦没者を追悼する式典が東京都庁で開かれました。  父親が戦死した木村百合子さん(76):「街頭インタビューで8月15日は何の日と質問され、『分からない』とか『誰かの誕生日?』と答えた若者がいました。父の出征時、母は22歳で父と母はわずか半年間の夫婦生活でした。母のおなかの中には三月に足りない私がおりました」  式典は、去年に続いて新型コロナ対策で規模が縮小され、遺族ら90人が参列しました。  小池都知事は、「難局を世界が一丸となって乗り越え、夢と希望にあふれた平和な世界を、持続可能なものとして、未来の子どもたちへと引き継いでいくことをお誓い申し上げます」と述べました。





 
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NHK  和久田アナと桑子真帆アナ

2021-08-15 22:51:34 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
言い間違え多発のNHK桑子真帆アナは定期エゴサーチ 紅白司会は和久田アナと一騎打ち
8/14(土) 11:30配信
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桑子真帆アナ
「NHKのエース」と呼ばれる桑子真帆アナウンサー(34)にとって、東京五輪はトラウマになってしまったようだ。 【写真】ザックリ衣装で前かがみのNHK桑子真帆アナ  閉会式生中継の実況を務めた桑子アナは選手入場で、アーティスティックスイミングの日本代表の選手たちが登場すると、「マーメイドジャパン、新体操の皆さん」と誤紹介。その後「アーティスティックスイミングの皆さんでした、失礼致しました」と訂正したものの、2018年の平昌冬季五輪でも開会式を「閉会式」と言い間違えただけに、ネット上では「またか」とツッコまれた。 「『NHK紅白歌合戦』で、白組が優勝したにもかかわらず『紅組に優勝旗が渡されます!』と凡ミスしたこともあった。〝言い間違い〟が愛されるキャラになっていますが、本人は不本意でしょう」(NHK関係者)  桑子アナは定期的にエゴサーチしては、ネット上の声を気に掛けているという。閉会式の際、各国の選手入場で「用意されたカンペを見ながら紹介していたのも、ミスを恐れてのことでは」(前同)。  桑子アナと双璧を成す和久田麻由子アナはほぼノーミス中継で評価を上げた。局内では「暮れのNHK紅白歌合戦の総合司会は和久田、桑子の2人に絞られている」とも。言い間違いがネット上で騒がれてしまうのも、人気アナの宿命。果たして大晦日はどちらがスポットライトを浴びるのか。




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学徒出陣「京大卒の戦友は訓練に耐えきれず自殺」

2021-08-15 22:45:12 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)
【特集:戦争体験】学徒出陣「京大卒の戦友は訓練に耐えきれず自殺」
8/15(日) 21:01配信
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松山航空隊にいたころのりりしい制服姿
 終戦から76年──。戦争の怖さや苦しさ、悲しみなどを語り継ぐため、過去の週刊女性PRIMEや週刊女性の誌面から戦争体験者の記事を再掲載する。語り手の年齢やインタビュー写真などは取材当時のもの。取材年は文末に記した。(【特集:戦争体験】第4回) 【写真】千葉県流山市の曹洞宗「廣壽寺」の酒井文英住職  ◇  寒い日だった。  千葉県流山市の曹洞宗「廣壽(こうじゅ)寺」の酒井文英(ぶんえい)住職(92)は学徒出陣した元海軍パイロット。終戦2年前の1943年10月21日、雨の降りしきる東京・明治神宮外苑競技場で銃を担いで行進した。学徒出陣壮行会だ。 「緊張しました。観覧席の女学生が“バンザーイ、バンザーイ”ときれいな声で送り出してくれましてね。清らかな気持ちになりました。ただ、担いだ銃が軽くってね」  当時20歳。駒澤大学の歴史学科で学んでいた。子どものころからガキ大将。6人きょうだいの長男で、両親から寺の跡取り息子として期待をかけられていた。壮行会の前の晩、僧侶の父親は「行ってこい。辛抱しろよ」とだけ告げた。母親はこわばった表情をして無口だった。 「戦局が悪化して、兵力を補うため文科系大学生も徴兵されたんです。担いだ銃は本物だったのか、木の銃だったのか、かなりインチキなものだったことは間違いない。なにしろ国防婦人会に竹ヤリを持たせて、米兵の火炎放射器と戦えというほどでしたから。これは生きて帰れないかもしれないな、と思いました」  すでに兵器は不足しており、出陣学徒全員が本物の銃で行進したわけではなかった。  成績は優秀だった。海軍飛行科に配属された酒井さんは、偵察機や戦闘機のパイロットとして呉航空隊(広島)、土浦航空隊(茨城)、松山航空隊(愛媛)、大津航空隊(滋賀)と渡り歩いた。任務は本土防衛。7つボタンの白い制服は、女学生の憧れの的だった。 「本土上空で出くわすのはたいがいB29でした。モールス信号で敵機襲来を“ツツーカカー”と知らせるんですが、地上からの高射砲が命中したところは1度も見たことがない。偵察機は3機編隊なので、単独飛行は心細くってね。機体の後ろに敵機に回られないよう気をつけました。撃たれちゃたいへんですから。向こうの戦闘機は速いんです」  訓練は厳しかった。午前5時起床。毎日10キロ走り、ひじで地べたを這(は)う匍匐(ほふく)前進の練習を続ける。闘争心をあおる騎馬戦も。理不尽なことで罰を受けた。 「気合を入れてやる」  上官の鉄拳制裁は日常茶飯事だった。仲間のひとりは60発ぶん殴られたこともあるという。互いに励まし合いながら、何度も夜行列車に乗って逃げようかと考えた。

彼の母親は無言で遺骨を抱いて
 松山航空隊にいたころ、忘れられない事件が起きた。 「仲間のひとりが船のフックにひもをかけて首つり自殺したんです。訓練に耐えきれなくなったんだと思う。京大卒の優秀な男でしたが、人付き合いが苦手でちょっと孤立しているところがあった。“つらい”とグチをこぼすこともありませんでしたから」  彼の自殺を報告したときの上官の言い方は、いま思い出しても腹が立つという。 「上官は“おまえたちの死亡通知は3銭(切手代)ですむんだ”と言う。バカにしていると思いました。当時そばが1杯7銭です。そんな言い方がありますか」  数日後、彼の母親が遺骨を引き取りにやって来た。 「軍は冷たい。軍隊葬もしなかったし、上官からお悔やみの言葉もない。お骨の入った箱を“はい”と母親に渡しただけ。息子の遺骨を抱いた母親は、何も言わず黙って帰っていきました。付き添う人もいませんでした。どんなにか泣き崩れたかったろうに。その後ろ姿がじつに寂しくて、今でも思い出すと胸が締めつけられます」  ほどなく終戦を迎え、酒井さんは無事に寺に帰ることができた。出迎えた母親はただただ喜んだという。  最後に、気になっていたことを聞いた。仏の道から戦争に行くことにためらいはありませんでしたか─。 「なかったというとウソになりますね。1度も交戦せず終戦を迎えられたことに感謝しています。そもそも、名誉の戦死なんて思えなかったからね。戦争は悲惨なものです」  そう言って目を閉じた。

 

 



 
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追悼 ドイツサッカー界のレジェンド、ゲルト・ミュラー氏が75歳で死去

2021-08-15 22:40:01 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)


 
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第2次 世界大戦 太平洋戦争開戦へ つながったもくろみ…そのとき日本は

2021-08-15 22:08:56 | ☆メディア(本・映画・Web・音楽など)




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中国国民政府を率いた蒋介石の膨大な日記の全貌が明らかになった。近年公開された蒋の外交史料と合わせて浮かび上がるのは日中戦争の国際化をもくろんだ戦略である。そしてアメリカ・イギリスの思惑も交錯しながら太平洋戦争開戦へとつながっていたのである。一方で、日本は多くの選択肢がありながら「引き返し可能地点」を何度も失っていたことも明らかになった。太平洋戦争開戦秘録から浮かび上がる現代への教訓とは。



中国国民政府を率いた蒋 介石(しょう・かいせき)の膨大な日記の全貌が明らかになった。日中戦争の国際化をもくろんだその戦略は、太平洋戦争開戦へとつながっていた。そして日本の選択とは。


日独伊三国同盟

 

 

 
 
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