枚岡教会(日本基督教団)の牧師のブログ

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クリスチャンボーイスカウトラリー 3/21

2019-03-25 | 教会の出来事
扇町教会(大阪市)、千里丘教会(吹田市)、そして枚岡教会のボーイスカウトが、北千里公園でラリー(集まり)を行いました。
長年、毎年春分の日に開催されてきたものです。
年に一度、大阪のクリスチャンスカウトたちが集まって一緒に活動をします。

午前中は、ビーバー隊、カブ隊のスカウトたちは、野外でゲームをして楽しみました。


その間、ボーイ隊、ベンチャー隊のスカウトたちは、3班にわかれて、みんなの昼食づくりをしてくれました。
それぞれ自分たちの班名をChina班、天津班、イタリー班と名付け、料理を作って参加者にふるまってくれました。

どの班の料理も、なかなか美味です。




食後に礼拝が行われ、各団紹介でエール交換もしました。




お約束(?)の「猛獣狩りへ行こうよ」ゲームもしました。



同じキリスト教ボーイスカウト同士の交流は、地区や近隣スカウトの集いとは一味違って、なかなか楽しいラリーとなります。








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アーモンド

2019-03-19 | 教会の出来事


教会にアーモンドの木があります。
聖書に出てくる植物です。
今も、イスラエルの国ではよく見かけます。
薄いピンクの花で、桜の花とよく似ています。


アーモンドは、礼拝所のろうそく立ての飾りに使うように定められていた植物です(出エジプト記)。
ずいぶん古くから、聖書の人々には、なじみのものだったようです。

旧約聖書に、エレミヤという人が登場します。(エレミヤ書)
神さまの言葉を人々に伝える預言者として活躍した人です。
しかし、預言者の仕事を始める時、彼は不安でした。
自信がなかったのでしょう。

エレミヤと神さまとのやりとりが、聖書に書かれています。

主の言葉がわたしに臨んだ。
「エレミヤよ、何が見えるか。」
わたしは答えた。
「アーモンド(シャーケード)の枝が見えます。」
主はわたしに言われた。
「あなたの見るとおりだ。わたしは、わたしの言葉を成し遂げようと見張っている(ショーケード)。」

アーモンド(シャーケード)という言葉は、神さまが「見張っている」(ショーケード)という言葉と似ています。
「見張っている」というのは、怖いことではありません。
「ちゃんと見ている」ということです。
「あなたのことをちゃんと見ている…、見守っているよ…」ということです。
そう励ますために、神さまは不安だったエレミヤにアーモンドを見せました。
アーモンドの木は、神さまが見守っていてくださることを思い起こすものです。

春になり、新生活が始まる人もいます。
何かと不安な人もいることでしょう。
「神さまがちゃんと見ていてくださる…」
神さまを信じることは、進み出す勇気が出てくることです。


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2019年の受難節

2019-03-07 | 教会の出来事
3月6日(水)は、キリスト教会の暦で「灰の水曜日」と呼ばれる日です。
灰をかぶり、自分の罪を悔い改める日です。
枚岡教会では、数年前から、「灰の水曜礼拝」を行っています。
今年も「受難節の信仰生活への招きの言葉」を聴きながら、礼拝をおこないました。

世界のキリスト教会では、灰の水曜日から受難節と呼ばれる季節になります。
受難節は復活祭(イースター)の前日まで続きます。
復活祭は毎年日付の変わる移動祝日です。
今年は、4月21日(日)です。


この季節には、いつも以上に聖書を読み、イエス・キリストが十字架にかかる際の苦しみを思い巡らします。
同時に生活の中で、「祈り」、「断食」、「施し」を重んじます。

この季節の「祈り」は、神に首を垂れる時であり、神の前での自分の罪深さと小ささを見つめる時です。
祈りは、自分の願いを主張することではありません。

「断食」は、自分の欲望のままに生きることをやめるためです。
断食中は、一切のものを口にしない、というのではありません。
日中の食事を避ける、肉を食べない、好物を食べない等、その方法は多様です。
大切なのは、欲しいものを求める生活から離れることです。
もちろん体調を崩さないように注意します。

「施し」は、キリストが人のために命をささげたことを思いながら、その姿に倣います。
自分が握りしめていたものを手放して、他者のために差し出します。
周囲の人たち、また世界の混乱の中に生きている人たちに心を向け、支援をしたいと思います。


そのようにして、欲望のままに生きる生き方から、一歩離れて自分を見つめ直します。
これは、現代の私たちに欠けている態度でしょう。
この季節は、それを促してくれます。



「わたしたちは通常、他の人々の事を忘れています。他の人々の問題や苦しみ、彼らが耐え忍んでいる不正義などに関心を示さず、わたしたちの心は冷たくなっていきます。自分が程よく快適であるうちは、不幸な人々のことを考えません。今日、無関心という利己的な態度が、無関心のグローバル化といえるほど世界に広がっています。…わたしたちは、無関心でいたいという強い誘惑にかられます。無関心になったり、自らの中に閉じこもってしまわないように、心を新たにしなければなりません。」(あるキリスト者の言葉)



一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しむ」(コリントの信徒への手紙一12:26)
お前の兄弟はどこにいるのか」 (創世記4:9)


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