雑記zaki

日々の雑記

書いては消しての繰り返しの時ありますよね。

2021-02-13 01:00:00 | 日記
パソコンで書くのがいいと言ったけど、gooブログはアプリが優秀すぎてiPhoneで書いてる。

最初は森会長辞任について書こうとしたりオーディオブックについて書こうとしたりなかなかしっくりこなかった。
というのもコロナ禍で皆イライラしてるんだなぁというのがこの一連の騒動で可視化されてしまったように思う。
だからなんだかそれに乗るのも癪だと思って。

そういえば詩集を買った作者の名前は忘れてしまったので届いたら書く。

詩集こそオーディオブックが欲しいような感じもするが、まだまだ気軽に買えるサービスが少ない。自分で声出してみるのもいいのかな。

音読って大人になるとしなくなるけどいいですよね。英語の勉強するときやるんですけど、日本語を声に出して読むのもなかなかいいもんです。

詩はもはや売れなさすぎて絶滅寸前だと聞いたことがある。なのでみんなも詩を、読もう!
自己啓発本なんて読むのやめろ!YouTubeで◯◯大学や謎のメン◯リストの本紹介動画見て満足なんかするな!!

そんなの読むくらいなら、仏教かキリスト教の本でも読んだほうがマシですはい。
考えてみてください。YouTuberだかなんだかわかりませんが釈迦やイエスよりも為になると思うでしょうか。
いやもしかしたら彼らもなんか本出したりマインドフルネスだの語ってるかもしれませんがツイートや動画内容をみて彼らがマインドフルだと思いますか。
一部の学問的な専門家か実際の宗教家(実践者)以外が出した宗教本というのはサプリメントみたいなもんでね、いい気分になるかもしれないが役に立たない。
かと言ってたいそうなこと語っておいて裏では微妙みたいな宗教家もいるので一概には言えないんですがね。

教えに関わる人は聖人君子であるべきだと思います。いわゆる教師と呼ばれる人たちですね。
いくら教え方が上手いとしても人格が優れていなければそういう人に教えを乞いたいとは思わないし。
だから今でしょの人とかは受け付けないですwwww申し訳ないですがw

本を読む前に解説を聞いてしまう弊害もあります。
通常なんの情報もないまま読むとこれはどうかという思考が働くけど先に解説を聞いてしまうと、その解説のようにしか読めなくなる。
先入観が邪魔をするんですよね。だからよろしくない。その通りにしか読めなくなる。
批判的に読むということができる人はそんな解説動画見たりしないでしょうし。
むろん難解な専門書の場合は解説から入るのもいいんですがね。

自己啓発本はスピリチュアル系かライフハック的などっちかに分かれると思いますが、まぁいずれにしてもですね、既存の宗教からパクってくるか、学問の中からパクってくるか、しかないわけでしてまぁ劣化でしかない。
なんとか楽して現状を変えたいという欲望の現れであります。本物以上のもんは無いと思います。気分は良くなるかもしれないですが。

かくいう自分もたくさん読みましたから。
でもいくつかの方法論は使えたりもするんですよね。これはまぁいずれもしかしたら書くかもしれない。でもたいしたことじゃないですが。
それも結局全体の中で体系化されないとそこだけ取り出してもやはり意味がないと思っている。そこは人によって思想信条が違うから納得するしないは変わってくる。

なんだかんだ言っても自分の中で納得するように、こうなんじゃないかあーなんじゃないかと云々考えないと、よくはならないですよね。
外部に何か求めても。

ヨガと体操の本を2冊本を購入した。

2021-02-11 20:49:00 | 日記




アフィリエイトでもなんでもないので、安心してください(gooブログは有料じゃないとアフィリエイトできないんだっけ?)

一人称僕より俺の方がいいのかな。
なんか書く記事によって口調も変わる感じするからどっちに統一とかも難しい気がする。
今日は俺の気分。

届くのが楽しみだ。
最近やりたいことや欲求が適度に出てきて、自分にとって良い感じになってきている。

本当にやりたいことを探すのって実は難しいですよね。
みんなお金持ちになりたいとか異性にモテたいとかあるだろうけれど、でも本当の本当にはなかなか思えない気がする。
欲しいは欲しいけど別にまぁ手に入らなくてもいいやみたいな感じ。

幼少期にだいぶ自分の欲求を押し殺さざるを得なかったからか、俺は欲望を持つのが下手になってしまった。

たまにやりたいことリストなんぞ作ってみたりもするが、後で見返してみると別にそんなにしたいことでもないなって思うことが多かった。
それでも諦めずに書いてはダメにしてを繰り返すと、これはまぁいいんじゃね?ってのが出てくる。それで心から納得できるやりたいことが一つ手に入った。
もう一つ思うのが今の自分をそんなに信用しすぎないってことだ。
今の自分がやりたいと思うことなんてたかが知れている。だから別にたいそうなことでなくてもよい。大きなことは未来の自分に託す。
前澤社長クラスの人なやりたいと思うことと、俺がやりたいと思うことでは考えられる範囲が違う。

今は行動を増やすよりも減らす方向で努力している。

1.SNSをなるべく見ない
2.何かを批判しない(いままでの記事でしてたかも)
3.考えすぎない
4.できることをやる

減らすといえば反応しない練習という本がありますが、著者朗読のオーディオブックがいいんですよねぇ。声が穏やかでさすが本物の僧侶だけあるなぁと思います。説得力が違う。

巷に溢れる自己啓発みたいなチープなマインドフルネス本とは一線を画しますよね(批判するな)

今年は坐禅も腰を据えてまたやろうかなぁ。一時期やってたんですけど、やめてしまいました。やるとなったら本気なんで一時期は45分やってました毎日。ざふも買いましたが今では置物と化しています。

とりあえず今日はここまで。


詩篇のススメ

2021-02-10 21:52:00 | 日記
最近聖書のなかの詩篇を読んだりなどしている。

非キリスト教徒の僕には聖書そのものは敷居が高く、まだ読めてはいないのだが旧約から引き継がれた詩篇はキリスト教徒には大事なものなんだそう。
昔の聖職者は詩篇の暗記が条件にもなっていたらしく、それくらい価値のあるものだ。

来住英俊さんという神父の方の「詩篇で祈る」という本をきっかけにキリスト教についても少し勉強してみようとなって、この方の三部作の本を買ったがまだ全ては読めていない。
この方の経歴はこれまた面白く灘→東大文Ⅰで神父になるという。


詩篇祈るというところがミソで詩篇祈る訳ではない。
詩篇の内容そのものは正直わかりません。
詩篇を学ぶわけでも、解釈する訳でもなく、ただ読むのではない。
詩篇祈るとは詩篇を使って自身が祈りることである。
ところで僕を含む無宗教の人には祈りってなんやねんわからんわという感じもあるが、目的というのは感情を出すことにある。
詩篇に乗せて自分の感情を出すことにある。

それだったら音楽でも映画でもなんでもいいじゃないかと思うかもしれないが、現代の我々はそういう言葉を失っていることが多い。

これは全く批判ではないが、例えば今流行りのうっせぇわという曲に代表されるように、短フレーズ感情を単にその場その場で発散させるようなものはあるのだが、感情を抉り出すような重々しい言葉はあまりないというか、失いつつある。
詩篇に出てくる詩はまさに切迫な文言が並ぶ。
怒ったり悲しんだり嘆いたり、誰でも思うことが昔の人にもあったんだなも思うと同時にここまで怒ったり悲しんだり嘆いたりすることって現代の人はうまくできていないんじゃないか。
そして詩篇で祈るとは感情の発散とは違う。
祈りは当然神に向かってするものだからである。それは発散はされない。
詩篇をきっかけにそういう気持ちを出してみるのもいいものだなぁと思う。
しかしやはり当たり前のことだがキリスト教徒ではない僕にとっては神が聞いてくれているかどうかということについて確信はない。
だから、なんというか本物のキリスト教徒ほどにはうまくできないと思う。

それでまぁそもそも詩篇の前に詩に興味を持っていて(詩を読もうとして詩篇にたどり着いたのだった)最近は詩集なども読んでみたいと思っている。
今時詩を読むひとはかなりマイノリティらしいが、詩篇で感じたのは詩が一番感情をむき出しにできそうだということだった。
名言のようなものは自分を鼓舞したりするにはまぁいいかもしれないが、それ単体では味気ない。
僕が詩を読むのは詩を解釈したいわけでも面白いからでもなく自分の感情を引き出すとっかかりになるからである。
感情は出さないと心の底で腐る。腐臭を漂わせ、何かをきっかけに溢れ出す。
詩の内容そのものは自分と全く関係のない世界で構わない。
その詩の世界を通して表現された悲しみ怒り喜びに自分の悲しみや怒りや喜びを乗せてみる。
そうすることでようやく自分の感情を吐露できる。
現代人は自分は感情を出してるつもりでも、実はそれほど出してない。というよりもそもそも出す方法自体がなくなりつつあるし、出したとしても出きらない。
急にどっと出したりもする。そもそも感情出すのが下手になってきているのだ我々は。

詩で出す感情とは何かが悲しいわけではない。ただ悲しいということである。
例えば誰かの死を悼む詩があったとして、その詩を読んだ時にその人が死んだことが悲しいなぁと思うことは単なる解釈である。
それ自体に感情移入するわけではないし、誰もできないだろう。(知らない人の死に感情移入していたら精神がもたない)
この詩を書いた人はこの誰かの死をこんなにも悲しんでいるのだというそこがとても大事。
その人が死んで僕も悲しいです、とはならない。悲しんでいるその情景に自分の悲しみを同じ量だけ乗せられる。
詩の中に表現される悲しみの感情に自分の悲しみを乗っけるという営みである。

自分の中で悲しい時はこれ、楽しい時はこれ、辛い時はこれ、みたいな詩を探すのもなかなか楽しそう。
感情は腐る前に出す、それには詩が一番だ!
という詩のススメでした。

承認欲求はダメだという風潮はダメだ

2021-02-10 00:46:00 | 日記
そもそも僕たちの存在は他人から来て他人によって承認されて初めて立ち上がる。

親という他人から生まれてきて命名されそれを承認されて初めてヒトになる。

誰も他人抜きで存在することができないというこの事実一つとっても承認欲求を捨てるという主張が馬鹿げた絵空事であることがわかると思う。

嫌われる勇気とかいう本が流行る前に僕も買って読んだことがある。最初から衝撃的ですごいなと思ったが2回か3回読んだらとてつもない違和感が拭えず処分してしまった。
最近になってその承認欲求云々についてなんか書こうと思ったのは、YouTubeでなんか東大理科三類の人が塾で小学生にお話しする動画を見たからである。そこで、他人の期待がなければ頑張る理由もない的なことを言っていた気がする。他人がいないのなら別に何もかもする必要がない。何かしようとするのはそこに他人がいるからだ。

それでその違和感は他の思想やライフハックや哲学にまで広がっていった。
結局のところ生と死を扱わないようなものは僕にはあんまり合わないんじゃないかと思った。
例えば嫌われる勇気の目的論にしたって、誰も目的があって生まれることを選んでいないわけだから土台で失敗している。
土台失敗してるから全体としてこじつけのような違和感にしかならないのである。

思想にしても哲学にしてもある一部分を切り取って、こうだあーだ言うのはそれを理不尽に生み出す/奪い去る生と死を前にしたらなんだかあってもなくてもいいようなちっぽけなものに感じる。
ライフハックも同様。ただ人生の今この瞬間たったこれだけを良くしたいというのはあんまりうまくいくないように思った。
結局人生全体にわたってどうするのかを考えた方が結果的に目の前の小さな現実も変わる気がする。
ボトムアップで目の前のことからやろうとすると何もかも重要に見えて行動が止まる。
ゴールが見えていれば目の前の膨大なタスクも優先順位が決まるし、やらなくていいこともわかる。

しかし他方で夢を持たなければダメだという社会もダメだと思う。
某プ◯ルを見た東野が夢を持たない人間はダメだと言われてるように感じたと言うが、まさに今の社会はそのような風潮がある。
夢を持って大きなことをすべきだ、個性を出してオリジナルで、自分のやりたいように生きよと。
でも本当にそうだろうか?いつからそんな夢を持たなければ生きる価値がないみたいな風潮ができたのか。
結局金である。金をもっと効率よく動かすには夢を持ってもらわねば困る。
むしろ夢を背負って苦しんでる人が多すぎる。いいじゃないか夢を持たない人生でも。

夢と同様に個性もよーーーーく言われる。
日本の教育は横並びで個性が出せないと。
でもね、ある程度ならしてもなお突出するのが個性だと思うんですよね。

例えば太陽の絵を描いてくださいという指示と自由に絵を描いてくださいという指示だったらどっちの方が個性が見えるかと言ったら太陽の方なんですよ。
自由に絵を描いてという指示だとみんな各々普通の絵を描くはずです。みんなが描くようなことを描く。ある人は家族の絵、ある人は動物の絵、それでどれが個性なのか?とは分かりません。絵のうまさはわかるだろうけど。
一方で太陽の絵というとそこには明確な差が出てくる。だいたいは同じような太陽の絵を描くだろうが、こんな太陽の絵を描くのかというのがはっきりと出てくる。
ある程度枠を作りそこからはみ出たものが個性として初めて認識される。
もしその人が個性的ならどんなに枠に入れようとしてもはみ出る。だからこそそのたまに枠が必要なのだ。
枠がなければはみ出ていることに気づくこともない。

適切な怒りの量を超えて怒っていやしないかい

2021-02-08 23:10:00 | 日記
最近何かあるごとに誰かに対して怒りを向けている。
それは各々好きにすればよいと思うが必要以上に怒っているように思う。
森氏の発言はあり得ないのはその通りなのだが、どこまで怒りを向けるのが正しいんだろう。

そんなことから正しい怒りの量というものを考えている。
あの発言が炎上したのは何も時代だけのせいではないと思う。我々を取り巻く環境、直接に言っちゃえばSNSが個々の怒りを増幅している気がしている。
何か腹立たしいニュースを見てそれをずーっと何日も何日も引きずっている気がする。
それは元々の問題を超えて自分から腹を立てて怒りに向かっている気がする。
そういう仕事ならわかる。世相を気にする学者はライターとか。でもそうじゃなくてただ怒るために怒っている人がいるように思う。
こういうとお前は怒らないのか冷笑系なのかと思われそうだがそうではない。
そりゃ腹立たしいことはあるし、怒りを向けることもある。問題は程度の問題である。

どれくらい怒れば気持ちが収まるのかというのをそれからずっと考えている。
人間の感情の中で怒りがもっともコントロールするのが難しいと聞いたことがある。
これくらいのことにはこれくらい怒るというそんな指標はないわけで、人によって許せる範囲も違う。
しかし概して自分に直接の利害がない限りはそこまで腹を立てない方がいいのではないかと思う。
極論だがニュースも新聞も見ない方が精神的にはよいだろう。ただそこまで無関心を貫くのもなんだか社会的動物としてどうなんだというのもある。
時々資本主義の権化みたいな人でそういう人いると思うんですが、そこまで行くと単なる自己実現モンスターにも思えてしまう。
社会で起きていることも知らない、なにそれ?ってひたすら金だけを求めるのもなんだかなぁ。

話を戻して正しい怒りの量とはどこなんだろうか?
怒りはコントロールが難しいから基本的には怒ろうと思えば、無限に怒れると思う。
かと言って押さえつけるとどこかで爆発する。
適度に怒りながらここまでと切り上げる潔さも必要な気がする。
僕も人よりは怒らない方だと思っていたが、結局それは諦めに近いものでもあった。本当は怒ってもいいところでも、まぁ怒ったところでな、仕方ないなという諦めの気持ちがあった。
そういう感情が澱のように溜まって心の奥底で渦巻いて、なにかをきっかけとして噴出する時がある。
特にコロナ禍では気づかないうちにストレスを溜めそれをなんらかのニュースをきっかけにSNS上でぶつけているようにも思う。
自分が何に対して怒っているのかひょっとしたらわかっていないのかもわからない。
本当にそのニュースに怒っているのか、別に何かあってそれに対して怒るべきところをニュースにぶつけているのか。そういうこともあるかもないかもということで。

まぁでもとにかく僕は情報を極力シャットアウトしていく方向で、それでいて無関心にもならず、それなりに余裕ができたらまた深く社会と関わっていこうと思う。