雑記zaki

日々の雑記

デジタルと手書きの狭間で日記を書くことの意義

2021-04-05 20:47:00 | 日記
ブログを書くのをサボってしまいました。
いつも何かしながら少しずつ書いたりしてたのですが、しっかりと予定に組み込むことにしました。

部屋の掃除をしているときに1分間日記という本を見つけた。
ずいぶん昔に買ったんだと思うのですが、今改めて読んでみています。
日記のフォーマットに、これを利用するつもりです。
こちらと合わせて読むとよりはっきりと内容が頭に入るような気がします。

ただしこの2冊では書いてあることは結構異なります。
たとえば上の本だと目標は具体的に、下の本では目標は抽象的にとあります。
ではこの2冊どっちが正しいのかということになるんですが、結論から言うと下の本の方がより詳しいです。
マインドの教科書で定義する目標と日記本の方で定義する目標では意味が異なるからです。
日記本で言う目標はマインドの教科書ではエフィカシー(自己効力感)を指しています。
東大に合格する!資格試験に受かる!年収何億!みたいなのはマインドの教科書では目標と捉えません。それらは全て自己効力感の範疇に収まります。

では自己効力感とはなんなのかと言うと、当たり前のことだと思えばわかりやすいです。
自分がどの程度の人間であるのが当たり前だと思ってるのかで、その人がどうあるかが決まるということです。
自分には年収が500万が妥当だよなと思う人はそのくらいの年収になるように行動するし、年収が1億が当たり前だと思う人はそのようになるわけです。
それらは全て自分がそうあるに相応しいと思うような状態のことであって、追い求めるものではない。どんな状況に置かれていても自分にとっての当たり前の基準は無関係に存在しています。現実がその通りであるかに関わらずです。
例えば、普通の日本人にとっては毎日お風呂に入ることは当たり前のことだと思います。
海外旅行で発展途上国に行って、お風呂が壊れて入れなかったりすると不快に感じます。そして、風呂に入れるところを探し出したりします。自分にとっての当たり前を実現しようと勝手に動くわけです。ところが現地の人にとっては風呂に入るのは当たり前でないこともある。現地の人たちは別に入れないからといって風呂探しをしたり、不快になったりすることもありません。
もちろん現地に長くいればいるほど逆に入らないのが当たり前になることもあります。そうすると自分は毎日お風呂に入らないのが当たり前になり、なんとも思わなくなるでしょう。

でも、年収1億だと自己評価したらなれるのかよ?って思うかもしれない。
少し考えてみた。
例えば、あなたが寝ている間にアフリカの奥地にあなたを移動させたとしましょう。
目が覚めるとあなたは見たこともないジャングルの奥地にいます。最初は夢かと思いますがどうやら夢じゃ無いらしい。しばらく歩いてみると、部族に出会う。言葉も通じず、どうやら日本では無いということが分かってくる。しかしあなたの当たり前はそんな現実を前にしてもそう簡単には変わらないでしょう。自分は今まで日本にいたし、日本で仕事をしていて家族はこんなんで〜という記憶はそう簡単に消えない。どんな手を使っても日本に戻る、と思うでしょう。つまりこの時点では頭の中にある日本での記憶の方が目の前の現実よりもはるかにリアルなのです。
現実と頭の中の想像、どちらがリアルかと言われたら普通は当たり前ですが現実です。
目の前のものは手に触れられるし、質感があるし確かに存在しているように感じられる。
だから僕たちはすぐ現実の方に引っ張られてしまう。
上記のような例のレベルで想像が現実以上のリアリティを持ち続ければ、必ず想像の方に近づいていく。
ただし、持ち続けることが大事で上記の例で言うなら、なんだかよくわからんけど起きたらアフリカに居て、もう日本に戻れないしここでいいやとなれば、そこで暮らすことになるでしょう。次第に頭の中の日本での記憶も、そんなこともあったなぁぐらいになってリアリティを失っていきます。

日記本や世間で言われているような目標、何かを手に入れる、資格試験に受かるなどは自己能力の自己評価に過ぎ無いということです。

マインドの教科書でいう目標は現状の外側、つまり今の自分では到底どうしたらそれが達成できるのかわからないようなとてつもなく抽象的なものです。

長くなってしまったのでこの辺にしておきます。

取引をする者は皆商人である。

2021-04-02 21:51:00 | 日記
エックハルト説教集少しだけ読みました。
最初から非常に痛快です。イエスが神殿から商人を追い出した話から始まる。

神の側が決めるのだから、何かしたから、あるいは何をしなかったからといって神が何かそれなりの施しをすることはないと言い切っている。
これはキリスト教においても原理的な話だと思う。つまり祭式主義の否定である。
たくさん祈れば、たくさん供物を捧げれば神が助けてくれると言うのは違うと、エックハルトは言う。そもそも神へ捧げる物でさえ、神がもたらした物なのだから、元々神の物であってそんな物不十分だという。

とりあえず早く全部読み終えたいと思う。
今日は短めで終わる。

生活の中で時間を作るのは難しい

2021-04-01 22:21:00 | 日記
想像上の時間と実際の時間は違う。
計画を立ててみるとこれでうまくいきそうだとは思うのだが実際やってみると全然時間なんてない。

時間はあるように見えてない。
何もしてない時間なんて無い。
何もしてないと言いながら寝ているし、スマホをいじってるし、必ず何かしているのである。
そしてそれは無意識に常にやっていること。
まずそれを意識にあげ、それを減らす、減らしたところにやりたいことを入れる。
自分のために使える時間が増えれば増えるほど良い1日。
そうは言ってもやらざるを得ないことはどうしたってある。
寝なきゃいけないし飯食わなきゃいけないし。その時間はどんなに頑張っても削れない。

エックハルト説教集が届いた。縁起的に読むエックハルト説教集シリーズでも書こうかな。
ただ聖書の知識がほぼない(キリスト教の本は積んでいる)のでそれを読みつつって感じかも。
でもパラパラ見たけど完全に好みかもしれん。
面白い本です。
岩波文庫は難しいものも多いが、やはり岩波。圧倒的に為になる。

ところで、マインドの教科書という本を買っていて読み込みたいとも思っている。こちらは自己啓発本かな、苫米地英人という人のコーチングについて書かれている。
本人は胡散臭い人ではあるがwww、内容自体はなかなか信じられる。疑似科学と言う批判もあるが、それなりの思想的知識があれば、書いてある内容には納得できると思う。それがどの程度認知科学や脳科学に裏打ちされているかは、素人の僕にはわからない。
この人のコーチングの手法にはアファメーションなどがあるが、巷で言われてるようなアファメーションとこの人が定義するアファメーションはまるで違う。
例えば私は金持ちだ!というのはこの人の定義だとアファメーションにはならない。
相当なボリュームなので書き出しながら読むだけでかなり時間がかかる。
実践ベースなので読んで気持ち良くなるだけの本ではない。

それにしても、仏教にしてもキリスト教にしても王道ではなく脇道から惹かれることが多い気がするなぁ。