一番下の孫が来たので、近所の岡本公園~岡本民家園~静嘉堂文庫美術館を一緒に散策。
カメラ抱えていよいよ終盤となった公園のモミジを撮る人たちがけっこういた。
散る葉を目で追いながら思い出すのは、
うらを見せ表を見せて散る紅葉
*
これは、良寛さん(宝暦8年(1758)~辛卯2年(1831)、幼名:栄蔵)辞世の歌(句)としてしばしば紹介される。
しかし、どうも違うようだ。
最後まで付き添っていた貞心尼(寛政10年(1798)~明治5年(1872)、1827年良寛70歳のときから交流)の『はちすの露』によれば、「こは御みづからのにはあらねど、時にとりあひのたまふいといととふとし」と記されている。
水上勉氏はその著『良寛』の最後を次のように終えている。
「橘屋の栄蔵は、最後を弟に見とられて死んだ。外ははげしい雪で、しきりに風が戸をたたいていた。この世に何の所有もなく、心に是非もなかった人が死ぬけしきは、なるほどもみじの葉がうらおもてを見せながら地めんに落ちるのに似ていたろう。生にも死にも垣根のない場所にいたのだから、辞世と伝えられる歌も、誰かがよんだのを、時に借用したまでのことであった。」(全文、同著から引用)
なお、『定本 良寛全集 第二巻歌集』(中央公論新社 2006年)では、この句は美濃の俳人で芭蕉と親交のあった谷木因(たにぼくいん)の「裏ちり表を散りつ紅葉かな」に拠ると紹介している。
この里に手まりつきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし 良寛 (上記全集第二巻)
カメラ抱えていよいよ終盤となった公園のモミジを撮る人たちがけっこういた。
散る葉を目で追いながら思い出すのは、
うらを見せ表を見せて散る紅葉
*
これは、良寛さん(宝暦8年(1758)~辛卯2年(1831)、幼名:栄蔵)辞世の歌(句)としてしばしば紹介される。
しかし、どうも違うようだ。
最後まで付き添っていた貞心尼(寛政10年(1798)~明治5年(1872)、1827年良寛70歳のときから交流)の『はちすの露』によれば、「こは御みづからのにはあらねど、時にとりあひのたまふいといととふとし」と記されている。
水上勉氏はその著『良寛』の最後を次のように終えている。
「橘屋の栄蔵は、最後を弟に見とられて死んだ。外ははげしい雪で、しきりに風が戸をたたいていた。この世に何の所有もなく、心に是非もなかった人が死ぬけしきは、なるほどもみじの葉がうらおもてを見せながら地めんに落ちるのに似ていたろう。生にも死にも垣根のない場所にいたのだから、辞世と伝えられる歌も、誰かがよんだのを、時に借用したまでのことであった。」(全文、同著から引用)
なお、『定本 良寛全集 第二巻歌集』(中央公論新社 2006年)では、この句は美濃の俳人で芭蕉と親交のあった谷木因(たにぼくいん)の「裏ちり表を散りつ紅葉かな」に拠ると紹介している。
この里に手まりつきつつ子どもらと遊ぶ春日は暮れずともよし 良寛 (上記全集第二巻)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます