源義経の愛妾だった白拍子の静御前は、義経と都落ちする際に離れ離れになり、吉野の山中でつかまり、その後鎌倉に移送された。
そして、源頼朝等の前で舞うよう命じられたとき、
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と義経を慕う歌をうたい、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子のとりなしで命が助かったという。
***
その静御前の舞姿に見立てて名付けられた花が、ヒトリシズカ。
花びらに見えるのは「おしべ(葯隔・やくかく)」であり、花びらも萼(がく)もない。
分類:センリョウ科 チャラン属
学名:Chloranthus japonicus
花言葉:「静謐」「隠された美」
一方の静御前の歌にある「おだまき」とは、倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきのこと。
花の名は、その形から苧(お)だまきになぞらえたのだという。
分類:キンポウゲ科 オダマキ属
学名:Aquilegia flabellata var. pumila(ミヤマオダマキ)
花言葉:勝利の誓い、必ず手に入れる、断固として勝つ、暗愚、愚か。
静御前が白拍子であったことからヒトリシズカの名がついたことに、頷けないこともない。
しかし、オダマキ花の立ち姿や薄紫と淡い乳白色の彩は、憂いを帯びてなお優雅をとどめ、静御前を強く連想させてくれると思うのだが・・・。
これはわたしが“見る目を持たない”からなのだろうか?
*
話は飛躍するが、義経伝説が日本各地にあるように、静御前についても伝説が多い。
仙台市太白区秋保町野中の県道脇に『静御前の碑』がある。
そこの案内板『秋保の民話マップ⑧』には、次のように記されている。
⑧清水窪
「静ヶ御前」が、義経のあとを追い秋保の里、野中まで来て倒れていたところ、槻田家の祖先に助けられたが、義経討死の報を聞き、悲しみのあまりこの地でなくなり、その墓が県道わきに立てられたと伝えられている。
5基ならぶ石碑。
向かって左端の大きなものが静御前の碑。
この碑には「阿弥陀三尊」と彫られているらしいが、風化して文字は判読できない。
その右隣の碑には、次のようにある。
名取郡北方秋保長袋村野中組
宝永七庚寅年 願主
南無阿彌陀佛
九月十三日 合掌
※宝永7年(西暦1710年)。宝永4年(1707年)には富士山が噴火している。
また、道の反対側に位置する個人宅の敷地内には、仙台市教育委員会が設置した『清水窪(静が久墓)』案内板がある。
その内容は次のとおり。
清水窪(静が久墓)
平泉藤原氏のもとにあった源義経を慕いここまで来た静御前、疲労その極に達していたが、の方々の手厚い扶養により元気を取り戻し、再び旅を続けたという。
ここには、「御前御手植のひば」「御前ゆかりの清水」や「御前腰かけの石」がある。
(左端から腰かけの石、ゆかりの清水か? なお、御手植えのひばは見当たらなかった。)
この仙台市設置の方に従えば、静御前はこの地で亡くなっておらず、県道わきの墓とは符合しない。
これも伝説ゆえのことか。
いずれにしても、静御前を介抱したとか御前がここで没したとかはともかく、この地の方々の温情が確かにあり、それがはるか歳月を越えて今に伝わっていることに大きな感銘を受ける。
そして、源頼朝等の前で舞うよう命じられたとき、
しづやしづ しづのをだまき くり返し 昔を今に なすよしもがな
吉野山 峰の白雪 ふみわけて 入りにし人の 跡ぞ恋しき
と義経を慕う歌をうたい、頼朝を激怒させるが、妻の北条政子のとりなしで命が助かったという。
***
その静御前の舞姿に見立てて名付けられた花が、ヒトリシズカ。
花びらに見えるのは「おしべ(葯隔・やくかく)」であり、花びらも萼(がく)もない。
分類:センリョウ科 チャラン属
学名:Chloranthus japonicus
花言葉:「静謐」「隠された美」
一方の静御前の歌にある「おだまき」とは、倭文(しず)の布を織る麻糸をまるく巻いた苧(お)だまきのこと。
花の名は、その形から苧(お)だまきになぞらえたのだという。
分類:キンポウゲ科 オダマキ属
学名:Aquilegia flabellata var. pumila(ミヤマオダマキ)
花言葉:勝利の誓い、必ず手に入れる、断固として勝つ、暗愚、愚か。
静御前が白拍子であったことからヒトリシズカの名がついたことに、頷けないこともない。
しかし、オダマキ花の立ち姿や薄紫と淡い乳白色の彩は、憂いを帯びてなお優雅をとどめ、静御前を強く連想させてくれると思うのだが・・・。
これはわたしが“見る目を持たない”からなのだろうか?
*
話は飛躍するが、義経伝説が日本各地にあるように、静御前についても伝説が多い。
仙台市太白区秋保町野中の県道脇に『静御前の碑』がある。
そこの案内板『秋保の民話マップ⑧』には、次のように記されている。
⑧清水窪
「静ヶ御前」が、義経のあとを追い秋保の里、野中まで来て倒れていたところ、槻田家の祖先に助けられたが、義経討死の報を聞き、悲しみのあまりこの地でなくなり、その墓が県道わきに立てられたと伝えられている。
5基ならぶ石碑。
向かって左端の大きなものが静御前の碑。
この碑には「阿弥陀三尊」と彫られているらしいが、風化して文字は判読できない。
その右隣の碑には、次のようにある。
名取郡北方秋保長袋村野中組
宝永七庚寅年 願主
南無阿彌陀佛
九月十三日 合掌
※宝永7年(西暦1710年)。宝永4年(1707年)には富士山が噴火している。
また、道の反対側に位置する個人宅の敷地内には、仙台市教育委員会が設置した『清水窪(静が久墓)』案内板がある。
その内容は次のとおり。
清水窪(静が久墓)
平泉藤原氏のもとにあった源義経を慕いここまで来た静御前、疲労その極に達していたが、の方々の手厚い扶養により元気を取り戻し、再び旅を続けたという。
ここには、「御前御手植のひば」「御前ゆかりの清水」や「御前腰かけの石」がある。
(左端から腰かけの石、ゆかりの清水か? なお、御手植えのひばは見当たらなかった。)
この仙台市設置の方に従えば、静御前はこの地で亡くなっておらず、県道わきの墓とは符合しない。
これも伝説ゆえのことか。
いずれにしても、静御前を介抱したとか御前がここで没したとかはともかく、この地の方々の温情が確かにあり、それがはるか歳月を越えて今に伝わっていることに大きな感銘を受ける。
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