今日の午後、またまた多摩川の河原を歩いた。
水面にきらめく光を眺め、「遍照」という言葉を思い出し、帰宅後はこれまた久しぶりに(というより埃かぶった)伊東静雄詩集を開けてみた。
わがひとに与ふる哀歌
太陽は美しく輝き
あるひは 太陽の美しく輝くことを希(ねが)ひ
手をかたくくみあはせ
しづかに私たちは歩いて行つた
かく誘ふものの何であらうとも
私たちの内うちの
誘はるる清らかさを私は信ずる
無縁のひとはたとへ
鳥々は恒(つね)に変らず鳴き
草木の囁(ささや)きは時をわかたずとするとも
いま私たちは聴く
私たちの意志の姿勢で
それらの無辺な広大の讚歌を
あゝ わがひと
輝くこの日光の中に忍びこんでゐる
音なき空虚を
歴然と見わくる目の発明の
何にならう
如(し)かない 人気(ひとけ)ない山に上(のぼ)り
切に希はれた太陽をして
殆ど死した湖の一面に遍照(へんせう)さするのに
※遍照:〔仏〕法身の光明が、あまねく世界を照らすこと。➠遍照金剛 遍照遮那仏 出典:広辞苑
(多摩川堤防のタマスダレ)
(前方は二子玉川駅)
(風になびく穂が美しいのは何?)
パンパスグラスでもなくヨシ(葦)でもなく、ましてやススキではないし・・・。
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