2016.03.03仙台市図書館で岡 千仭/撰の『塩松勝概』なるものを調べていたら面白いものに出会った。
それは、伊達家15代当主伊達邦宗(明治3~大正12)が大正10年秋に脱稿するまで十数年の歳月をかけたという全16巻の大作『伊達家史叢談』(孔版和書)。
第9巻の「貞山堀」のところには、次のような記述が出てくる。
*
貞山公時代ノエ事ノ如クニ思ヒ居レドモ、其実肯山公ノ開鑿セラレタルモノニシテ、
当初ハ「キビキ堀」卜称セリ、蓋シ「キビキ」トハ、恐ラク木引ノ意ナルペシ *
(参考)肯山公:第4代藩主 伊達綱村(1659~1719年)。万治3年(1660年)、父・綱宗の隠居後、2歳で家督を相続。寛文11年(1671年)には伊達騒動(寛文事件)が勃発。仙台藩は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなり、改易の危機から免れている。その後、綱村は、運河開削などの大きな治績を収めている。
これは面白い。
木曳堀の開削に関しては諸説あった。
しかし、広く知られる貞山公(伊達政宗)ではなく、肯山公(伊達綱村)によるものだとここまではっきり言ったものを目にするのは初めてのこと。
東日本大震災後に発掘調査された岩沼市『高大瀬遺跡』の地層からは、慶長大津波(1611年)前のものは泥炭層で、耕作不適地と想定されることともあいまって、なるほどと思わずにはいられない。
しかし、伊達家15代当主の長年にわたる収集の成果とはいえ、これまでの諸説とはかなり距離のある内容なので、まだまだ研究する必要がありそうだ。
それは、伊達家15代当主伊達邦宗(明治3~大正12)が大正10年秋に脱稿するまで十数年の歳月をかけたという全16巻の大作『伊達家史叢談』(孔版和書)。
第9巻の「貞山堀」のところには、次のような記述が出てくる。
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貞山公時代ノエ事ノ如クニ思ヒ居レドモ、其実肯山公ノ開鑿セラレタルモノニシテ、
当初ハ「キビキ堀」卜称セリ、蓋シ「キビキ」トハ、恐ラク木引ノ意ナルペシ *
(参考)肯山公:第4代藩主 伊達綱村(1659~1719年)。万治3年(1660年)、父・綱宗の隠居後、2歳で家督を相続。寛文11年(1671年)には伊達騒動(寛文事件)が勃発。仙台藩は改易の危機に立たされたが、綱村自身が若年であったことから幕府の裁定ではお咎めなしとされ、宗勝ら関係者が処罰されることとなり、改易の危機から免れている。その後、綱村は、運河開削などの大きな治績を収めている。
これは面白い。
木曳堀の開削に関しては諸説あった。
しかし、広く知られる貞山公(伊達政宗)ではなく、肯山公(伊達綱村)によるものだとここまではっきり言ったものを目にするのは初めてのこと。
東日本大震災後に発掘調査された岩沼市『高大瀬遺跡』の地層からは、慶長大津波(1611年)前のものは泥炭層で、耕作不適地と想定されることともあいまって、なるほどと思わずにはいられない。
しかし、伊達家15代当主の長年にわたる収集の成果とはいえ、これまでの諸説とはかなり距離のある内容なので、まだまだ研究する必要がありそうだ。
興味の湧いてくるとても面白い話ですね。
わたしはいずれも知りませんでした。
勉強してみますね。
こうしてみると、貞享の特例を背景に塩釜から延びる浜通りには熱い思いが綱村公にあったのでしょうか。