旅する心-やまぼうし

やまぼうし(ヤマボウシ)→山法師→行雲流水。そんなことからの由無し語りです。

わらじ村長鎌田三之助生誕の地

2010-08-04 23:05:56 | 水の道逍遥
8月1日に続き、今日も近くを通りかかったので立ち寄ってきた。

祖父、父、自分と三代にわたって品井沼干拓に全てをかけ、“今尊徳”“わらじ村長“と敬愛された鎌田三之助(かまたさんのすけ)翁。

その生誕の地。
場所は、宮城県大崎市鹿島台木間塚。
生家は、主要地方道「石巻鹿島台大衡線」の拡張工事のために撤去され、今は無い。

木間塚大橋(L=251.4m)」のたもとに建てられていた案内板も骨組だけが残り、肝心の説明書きはどこかに失せてしまっていた。
(補記)3か月後に訪れてみたら、すでに再設置されていた。さすが鎌田翁を敬愛する地だと改めていたく感心させられてしまった。
    ⇒ その状況は下段に掲載。







しかし、すぐ近くの交差点には案内板脇のものよりはるかに大きい『わらじ村長鎌田三之助翁生誕の地』の標柱が建てられている。




とはいえ、どちらが実際の地を示しているのか分からなくなってしまう。
8月1日に行った際には混乱してしまい、以前からあった案内板にはたどり着けないでしまったから・・・。



(注)次の画像は、ふたたび設置された案内板。上に掲載しているものは、8月4日撮影。こちらは11月24日に撮影。


▲『わらじ村長鎌田三之助生誕の地』の案内板(2010.11.24撮影)


▲『わらじ村長鎌田三之助生誕の地』の案内板(2010.11.24撮影)


<掲げられている案内板の内容>
鎌田三之助
”わらじ村長”と呼ばれた鎌田三之助は、品井沼排水事業に生涯を捧げた玄光を祖父とし、その遺志を継いだ三治の次男として文久三年竹谷に生まれた。
 明治十一年、十五歳の春、自由民権思想に共鳴して上京明治法律学校に学んだ。
 同十六年帰郷し、三十一歳で県会議員に選ばれ、三十九歳で衆議院議員に当選し二期国政に参与した。
 海外発展を唱えて明治三十九年メキシコに渡ったが、二年後亀井宮城県知事から「シナイヌマモンダイフンジョウ キカノアッセンヲマツ」の帰朝要請をうけ帰国、反対者を説得し同四十三年明治潜穴の通水式を挙げるに至った。
 また、明治四十二年三月、推されて鹿島台村長に就任、以来十期三十八年間、報酬も旅費も断り、粗末な衣服を身につけ、腰に握り飯をさげ、わらじばきで奔走し、品井沼干拓事業を頂点とする郷土の振興に精根を傾けた。
 昭和二年に紫綬褒章を受章、同二十二年公職追放で村長を辞任、同二十五年五月三日八十七歳で逝去された。
 鎌田翁の生家はこの地に木造瓦葺平屋建(一三七平方メートル)があったが、昭和六十一年県道拡張工事のため撤去された。
  平成十一年三月二十七日
  鹿島台町教育委員会


▼橋の中央部にある一対のすてきな彫刻(画像はその片方)
「水の面」 鹿野幸子(1933-2005) 彫刻家、女子美大名誉教授。愛知県出身。




(鳴瀬川に白鳥がいた:右側の白い2つの点がそれ)


(平成2年12月に供用開始)
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