次は、豊沢ダム。
ダム湖の水は、かなり少なくなっていた。
ここまでの道筋には、志戸平~大沢~鉛といった温泉がある。
皆それぞれ趣深く、魅力的だ。
(特に大沢温泉は、宮澤賢治がよく泊まったということでも知られていて、私は好きだ。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/31/edbe335ede97bb46ee824e4ea597fb85.jpg)
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次は、高村山荘。
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高村光太郎は、1945年(昭和20年)4月の空襲でアトリエが焼失、5月に花巻町(現在の花巻市)の宮沢家に疎開。
しかし、8月には宮沢家も空襲で被災したことから、10月にこの高村山荘の地に居を移した。
光太郎62歳のときだった。
ここには何度も訪れている。
その度に、地元の方々の温かい心で迎えられる。
だいぶ昔のことになるが、すれ違ったご年配の方から、何の前ぶれもなく「ありがとうございます。」と言われた時には、本当にうれしかったものだ。
今回は、山荘の前でボランティアのご年配の方(男性)と長い立ち話ができた。
とても識見高い方で、話題は縦横無尽。
・・・宮沢賢治と高村光太郎の出会い、ともに日蓮宗徒であったこと、人と自然・宇宙、宗教と戦争、手が加えられ整備され過ぎた感のある現在の山荘周辺(光太郎は自然をありのままで受け入れていたはず)のことなど、多岐にわたる・・・
もちろん、山荘を去る際には、他の方々からも「ありがとう」の声がかかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/5a/2aa692426d87db45259dd1b6c7675100.jpg)
▲山荘内に置かれたパネルを撮影
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/81/5264d90058b71a5d6b4ad51fb9e6cc05.jpg)
▲詩碑「雪白く積めり」
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▲智恵子展望台への道
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▲智恵子展望台への道
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▲智恵子展望台
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▲展望台からの眺望
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▲高村山荘の案内板
高 村 山 荘
この高村山荘は、彫刻家並に詩人として名高い日本芸術界の巨匠と称されている高村光太郎が、宮沢賢治の縁で花巻に疎開その晩年七ヶ年を過された由緒あるところで、その住居は鉱山の飯場小屋であった建物を移築したわづか七.五坪(二十五㎡)の粗末な山小屋で、幾多の困難に打ち耐えながら独居自炊、専ら真と善と美の究明に哲人の如き生活を続けられた。
昭和二十七年秋、光太郎は、青森県の委嘱を受け十和田湖畔に建立する記念像を制作のため上京し、翌二十八年この大作を完成して、同三十一年七十三歳にて尊い生涯を終ったが、この地を遺跡として永く伝うべく套屋(とうや)によって建物を保存し、詩碑を建立し、昭和四十一年 光太郎の彫塑、書画、文芸作品、遺品等を収蔵する記念館を開設した。
智恵子展望台は光太郎が好んで散策した丘陵で、夜たまたま、この丘に立ち亡き夫人の名を呼びしと里人の云い伝えたことから名付けられた。
花巻市
高村光太郎旧居の保存
高村光太郎山居七年の建物は、僅か七.五坪(二二.五㎡)の粗末な小屋でありますが、光太郎愛着の心のふるさととも申すべきところなので、地元太田地区民の皆さんが、大切に保存しようと昭和三十三年套屋(とうや)を建てました。
その套屋の方も傷んできましたので、昭和五十二年に高村記念会が、この套屋の外に鉄骨作りの第二套屋を建てて大切に保存しております。
高村記念会
今回は、ここまで!!
次回は、7000発打上げのある花巻花火大会「光と音のページェント」です。
※ 次(その3)の記事は ⇒ こちら
※ 前(その1)の記事は ⇒ こちら
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/31/e4/e61851bb664a0792fe6dea7d7fcf5763.jpg)
▲新奥の細道コース
八方山への登山口の表示がある。いずれ登ってみようと思っている。
ダム湖の水は、かなり少なくなっていた。
ここまでの道筋には、志戸平~大沢~鉛といった温泉がある。
皆それぞれ趣深く、魅力的だ。
(特に大沢温泉は、宮澤賢治がよく泊まったということでも知られていて、私は好きだ。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/31/edbe335ede97bb46ee824e4ea597fb85.jpg)
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次は、高村山荘。
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![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/39/a2/a10cbda69dbea5e308db656036d9a247.jpg)
高村光太郎は、1945年(昭和20年)4月の空襲でアトリエが焼失、5月に花巻町(現在の花巻市)の宮沢家に疎開。
しかし、8月には宮沢家も空襲で被災したことから、10月にこの高村山荘の地に居を移した。
光太郎62歳のときだった。
ここには何度も訪れている。
その度に、地元の方々の温かい心で迎えられる。
だいぶ昔のことになるが、すれ違ったご年配の方から、何の前ぶれもなく「ありがとうございます。」と言われた時には、本当にうれしかったものだ。
今回は、山荘の前でボランティアのご年配の方(男性)と長い立ち話ができた。
とても識見高い方で、話題は縦横無尽。
・・・宮沢賢治と高村光太郎の出会い、ともに日蓮宗徒であったこと、人と自然・宇宙、宗教と戦争、手が加えられ整備され過ぎた感のある現在の山荘周辺(光太郎は自然をありのままで受け入れていたはず)のことなど、多岐にわたる・・・
もちろん、山荘を去る際には、他の方々からも「ありがとう」の声がかかった。
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/20/5a/2aa692426d87db45259dd1b6c7675100.jpg)
▲山荘内に置かれたパネルを撮影
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/5f/81/5264d90058b71a5d6b4ad51fb9e6cc05.jpg)
▲詩碑「雪白く積めり」
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4c/29/9ba3ecb65f11226d439a0e2f1ad07410.jpg)
▲智恵子展望台への道
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▲智恵子展望台への道
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▲智恵子展望台
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▲展望台からの眺望
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▲高村山荘の案内板
高 村 山 荘
この高村山荘は、彫刻家並に詩人として名高い日本芸術界の巨匠と称されている高村光太郎が、宮沢賢治の縁で花巻に疎開その晩年七ヶ年を過された由緒あるところで、その住居は鉱山の飯場小屋であった建物を移築したわづか七.五坪(二十五㎡)の粗末な山小屋で、幾多の困難に打ち耐えながら独居自炊、専ら真と善と美の究明に哲人の如き生活を続けられた。
昭和二十七年秋、光太郎は、青森県の委嘱を受け十和田湖畔に建立する記念像を制作のため上京し、翌二十八年この大作を完成して、同三十一年七十三歳にて尊い生涯を終ったが、この地を遺跡として永く伝うべく套屋(とうや)によって建物を保存し、詩碑を建立し、昭和四十一年 光太郎の彫塑、書画、文芸作品、遺品等を収蔵する記念館を開設した。
智恵子展望台は光太郎が好んで散策した丘陵で、夜たまたま、この丘に立ち亡き夫人の名を呼びしと里人の云い伝えたことから名付けられた。
花巻市
高村光太郎旧居の保存
高村光太郎山居七年の建物は、僅か七.五坪(二二.五㎡)の粗末な小屋でありますが、光太郎愛着の心のふるさととも申すべきところなので、地元太田地区民の皆さんが、大切に保存しようと昭和三十三年套屋(とうや)を建てました。
その套屋の方も傷んできましたので、昭和五十二年に高村記念会が、この套屋の外に鉄骨作りの第二套屋を建てて大切に保存しております。
高村記念会
今回は、ここまで!!
次回は、7000発打上げのある花巻花火大会「光と音のページェント」です。
※ 次(その3)の記事は ⇒ こちら
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▲新奥の細道コース
八方山への登山口の表示がある。いずれ登ってみようと思っている。
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