今回は、5月9日に行ったことの続き。元禄潜穴から東宮殿下(後の大正天皇)がお召列車を一分間停車させ、台覧した場所までを紹介。
▲元禄潜穴穴頭
▲上流側
▲元禄潜穴
説明板には次のように記載されている。
元禄潜穴
仙台藩は産米を確保するため、新田の開発の政策を勧め、その一つとして、志田・黒川・宮城の三郡にまたがる品井沼の水を直接松島湾に排水干拓を計画。藩士大越喜右衛門(おおこしきうえもん)の指揮により、地下排水路の工事を元禄六(一六九三)年七月に起工。 五年間かかり当時の技術により困難と犠牲を乗り越え、元禄十一年八月に完成した。 沼の水を穴川で幡谷明神(はたやみょうじん)へ導き、途中十数本の縦穴を掘って土砂を運び上げ、高さ二.四メートル、高さ三.六メートル、長さ二.五キロメートルのトンネル二本を根廻猫迫(ねまわりねこはざま)まで掘り、現在の高城川を広げて松島湾へそそぐ、全長七.四キロメートルに及ぶ大工事で、歴史的な遺跡である。
松島町教育委員会
▲供養碑
次のように刻まれている。
供養碑之建立
元禄潜穴改修工事犠牲者の霊を祭る為に
次の場所に供養碑を建立する
一 幡谷地獄沢墓地に眠る数百名の霊
元禄六年から元禄十一年の五ヶ年
二 幡谷大墓山墓地に眠る霊
伊達藩士總指揮者大越喜右エ門外六名
元禄十一年八月十五日
三 根廻影沢墓地に眠る人夫数百名の霊と
おまんの霊
享保七年七月十七日
平成五年三月二十日建立 菅野利光
▲元禄潜穴ずり
▲元禄潜穴ずり
標柱には次のように記載されている。
元禄潜穴ずり
元禄六年から文久元年までの約百七十年にわたる
品井沼の水を排水した際の土砂釣り揚げのための竪穴
▲お万地蔵(右側の石造の方)
享保年代(1716~1735年)の潜穴改修工事の際、人夫頭の工事見積もり違いから大損をして人夫賃が払えなくなった。このため、人夫慰労の大宴会を潜穴の中程で開いた。酒を振る舞い、人夫たちの酔いがまわった頃を見計らって穴頭の土嚢の締切りを破って水を流し込み、人夫たちを皆殺しにしてしまった。高城川に流れ出たその死骸は目を覆うばかりの惨状だったという。この宴席には、美人で唄の上手な「おまん」も雇われて加わっており、人夫同様、溺死させられてしまった。娘の余りの無惨さに菩提を弔い祀ったのが「お万地蔵」(石造りのお堂)である。「俗名まん、享保七(1723)年七月十七日」と刻まれている。隣には、大きな乳銀杏の木があり、今は埋められてしまったが、その前方はズリ穴だった場所。
▲お万地蔵堂脇のイチョウの木
▲東宮殿下一分間停車記念の碑
東宮殿下一分間停車記念の碑
明治潜穴工事施工にあたっては、工事続行派と工事中止派との対立の中、中止派の
感情が根強く残っていた。
明治四十一年十月に東宮殿下(後の大正天皇)が、奥州地方を行啓なされるとい
うことを知り、鹿島台村長鎌田三之助は、東宮侍従に願い出て殿下の代理人の方
の視察を切望した。
ところが、東宮殿下御自らご台覧との報告を受け、鎌田村長はじめ工事続行派は
大喜び、明治四十一年十月十三日午後三時四十分、根廻上山王地内の鉄橋上にお召
し列車が一分間停車しご台覧の栄を得たのである。当時お召し列車が停車場以外に
停車することは絶対にあり得ないことであった。
東宮殿下よりのお言葉
「天下の大工事である。中途挫折の事なく竣工せしめよ」
これ以後工事関係者に動揺はなくなり無事に工事が完了している。
この石碑は、東宮殿下がご台覧された記念として昭和八年九月、品井沼水害予防
組合により建立された。
平成二十一年十一月
農村景観・自然環境保全再生パイロット事業
特定非営利活動法人 あぐりねっと21
ねまわりコミュニティ推進委員会
▲東宮殿下台覧の様子
▲記念碑前の鎌田三之助(中央わらじ履き姿)
▲台覧の地(鉄橋左側)
▲記念碑
品井沼開墾台覧記念碑
明治四十一年秋大正天皇猶東宮におは志し時東北地方に行啓あそばされ十月三日に鐵路盛岡より御歸還の御途次寺田宮城縣知事の懇請を納れ賜ひ特に此處に一分間御停車あらせられ畏れおおくも排水工事の實況を御台覽此工事は必ず達成せしめよとの有難き御諚をさえ賜はりたり勧業奨勵の御恩召洩れ承るだに畏き極みなり官民深く之に感激し夙夜工事を勵み同四十三年其竣工を見るに至れり之によって美田八百町歩は年々の水害を免れ更に良圃千三百町歩を開拓し得るに至れり茲に碑を樹て其の由来を記してこれを不朽に傳へんとす
宮城縣品井沼水害豫防組合
昭和八年九月二十日
従六位勲六等 四竃仁邇書
▲元禄潜穴穴尻
ここが高城川との合流点となっている。
▲元禄潜穴穴頭
▲上流側
▲元禄潜穴
説明板には次のように記載されている。
元禄潜穴
仙台藩は産米を確保するため、新田の開発の政策を勧め、その一つとして、志田・黒川・宮城の三郡にまたがる品井沼の水を直接松島湾に排水干拓を計画。藩士大越喜右衛門(おおこしきうえもん)の指揮により、地下排水路の工事を元禄六(一六九三)年七月に起工。 五年間かかり当時の技術により困難と犠牲を乗り越え、元禄十一年八月に完成した。 沼の水を穴川で幡谷明神(はたやみょうじん)へ導き、途中十数本の縦穴を掘って土砂を運び上げ、高さ二.四メートル、高さ三.六メートル、長さ二.五キロメートルのトンネル二本を根廻猫迫(ねまわりねこはざま)まで掘り、現在の高城川を広げて松島湾へそそぐ、全長七.四キロメートルに及ぶ大工事で、歴史的な遺跡である。
松島町教育委員会
▲供養碑
次のように刻まれている。
供養碑之建立
元禄潜穴改修工事犠牲者の霊を祭る為に
次の場所に供養碑を建立する
一 幡谷地獄沢墓地に眠る数百名の霊
元禄六年から元禄十一年の五ヶ年
二 幡谷大墓山墓地に眠る霊
伊達藩士總指揮者大越喜右エ門外六名
元禄十一年八月十五日
三 根廻影沢墓地に眠る人夫数百名の霊と
おまんの霊
享保七年七月十七日
平成五年三月二十日建立 菅野利光
▲元禄潜穴ずり
▲元禄潜穴ずり
標柱には次のように記載されている。
元禄潜穴ずり
元禄六年から文久元年までの約百七十年にわたる
品井沼の水を排水した際の土砂釣り揚げのための竪穴
▲お万地蔵(右側の石造の方)
享保年代(1716~1735年)の潜穴改修工事の際、人夫頭の工事見積もり違いから大損をして人夫賃が払えなくなった。このため、人夫慰労の大宴会を潜穴の中程で開いた。酒を振る舞い、人夫たちの酔いがまわった頃を見計らって穴頭の土嚢の締切りを破って水を流し込み、人夫たちを皆殺しにしてしまった。高城川に流れ出たその死骸は目を覆うばかりの惨状だったという。この宴席には、美人で唄の上手な「おまん」も雇われて加わっており、人夫同様、溺死させられてしまった。娘の余りの無惨さに菩提を弔い祀ったのが「お万地蔵」(石造りのお堂)である。「俗名まん、享保七(1723)年七月十七日」と刻まれている。隣には、大きな乳銀杏の木があり、今は埋められてしまったが、その前方はズリ穴だった場所。
▲お万地蔵堂脇のイチョウの木
▲東宮殿下一分間停車記念の碑
東宮殿下一分間停車記念の碑
明治潜穴工事施工にあたっては、工事続行派と工事中止派との対立の中、中止派の
感情が根強く残っていた。
明治四十一年十月に東宮殿下(後の大正天皇)が、奥州地方を行啓なされるとい
うことを知り、鹿島台村長鎌田三之助は、東宮侍従に願い出て殿下の代理人の方
の視察を切望した。
ところが、東宮殿下御自らご台覧との報告を受け、鎌田村長はじめ工事続行派は
大喜び、明治四十一年十月十三日午後三時四十分、根廻上山王地内の鉄橋上にお召
し列車が一分間停車しご台覧の栄を得たのである。当時お召し列車が停車場以外に
停車することは絶対にあり得ないことであった。
東宮殿下よりのお言葉
「天下の大工事である。中途挫折の事なく竣工せしめよ」
これ以後工事関係者に動揺はなくなり無事に工事が完了している。
この石碑は、東宮殿下がご台覧された記念として昭和八年九月、品井沼水害予防
組合により建立された。
平成二十一年十一月
農村景観・自然環境保全再生パイロット事業
特定非営利活動法人 あぐりねっと21
ねまわりコミュニティ推進委員会
▲東宮殿下台覧の様子
▲記念碑前の鎌田三之助(中央わらじ履き姿)
▲台覧の地(鉄橋左側)
▲記念碑
品井沼開墾台覧記念碑
明治四十一年秋大正天皇猶東宮におは志し時東北地方に行啓あそばされ十月三日に鐵路盛岡より御歸還の御途次寺田宮城縣知事の懇請を納れ賜ひ特に此處に一分間御停車あらせられ畏れおおくも排水工事の實況を御台覽此工事は必ず達成せしめよとの有難き御諚をさえ賜はりたり勧業奨勵の御恩召洩れ承るだに畏き極みなり官民深く之に感激し夙夜工事を勵み同四十三年其竣工を見るに至れり之によって美田八百町歩は年々の水害を免れ更に良圃千三百町歩を開拓し得るに至れり茲に碑を樹て其の由来を記してこれを不朽に傳へんとす
宮城縣品井沼水害豫防組合
昭和八年九月二十日
従六位勲六等 四竃仁邇書
▲元禄潜穴穴尻
ここが高城川との合流点となっている。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます