東日本大震災で大津波に襲われ、痛々しくも毅然とその姿を保っている貞山・東名・北上運河。
▲在りし日の貞山運河(木曳堀)
▲貞山運河(新堀) 2007.07.25撮影
▲震災後の貞山運河(新堀) 2011.03.14撮影:国土地理院
このたびの大災害で常套句になった「未曾有の~」、「予想をはるかに越えた~」。
しかしこれらの修飾語は、都合よく枠設定した人間の構想力の限界というものを“あいまい”にしてしまう。
その反動として、「歴史に学ぶ」が「基本中の基本」であることを痛感させられてしまった。
「矢を遠くまで飛ばしたかったら、弓は引け」
同じように、
「未来を見通したかったら、歴史をさかのぼり、深く掘り下げ、そして学べ」
何世紀にもわたって先人が積み上げたこの単純明快で確かな教えは、ゆるぎない。
貞山運河のうち阿武隈川~名取川間の木曳堀(こぼきぼり)は、1597年~1601年に伊達政宗(1567.9.5~1636.6.27)によって開削された。
これは、仙台城の築城および城下町建設のための木材輸送と、沿岸の名取谷地の開発を目的としたものであった。
政宗もこのときの技術者川村孫兵衛も、多賀城下で多数の死者を出した貞観11年(869年)7月13日発生の大地震は知っていたに違いない。
また、政宗が存命中の慶長16年(1611年)12月2日にも大津波があり、伊達領内では多くの人命が失われている。
それ以降も、幾多の災害をこの運河は乗り越えてきた。
しかも、現在までの410年という歳月を超えて大事に保全されてきた。
これからだってきっとそうなるだろう。
いや、そうしなければならない。
さもなければ、これまでの歴史、これからの歴史をあまりに軽んじてしまうことになる。
「貞山運河は年度内に復興計画を策定し復旧を図っていく。」
宮城県土木部河川課のホームページにはこのように掲載されている。
県は、歴史の重みと幾世代にもわたる人々の思いに、きっと答えてくれるに違いない。
そう信じて今は、貞山運河の復旧に役立つことを我らとしても果たしていきたい。
※ 先日「何か行動を!」と電話をくれた『NPO法人 杜の考房』のNさん、今日わざわざ訪ねて来てくださった『さんの会』のSさん、多くの仲間とともに近々その第一歩を始めましょうね。
▲在りし日の貞山運河(木曳堀)
▲貞山運河(新堀) 2007.07.25撮影
▲震災後の貞山運河(新堀) 2011.03.14撮影:国土地理院
このたびの大災害で常套句になった「未曾有の~」、「予想をはるかに越えた~」。
しかしこれらの修飾語は、都合よく枠設定した人間の構想力の限界というものを“あいまい”にしてしまう。
その反動として、「歴史に学ぶ」が「基本中の基本」であることを痛感させられてしまった。
「矢を遠くまで飛ばしたかったら、弓は引け」
同じように、
「未来を見通したかったら、歴史をさかのぼり、深く掘り下げ、そして学べ」
何世紀にもわたって先人が積み上げたこの単純明快で確かな教えは、ゆるぎない。
貞山運河のうち阿武隈川~名取川間の木曳堀(こぼきぼり)は、1597年~1601年に伊達政宗(1567.9.5~1636.6.27)によって開削された。
これは、仙台城の築城および城下町建設のための木材輸送と、沿岸の名取谷地の開発を目的としたものであった。
政宗もこのときの技術者川村孫兵衛も、多賀城下で多数の死者を出した貞観11年(869年)7月13日発生の大地震は知っていたに違いない。
また、政宗が存命中の慶長16年(1611年)12月2日にも大津波があり、伊達領内では多くの人命が失われている。
それ以降も、幾多の災害をこの運河は乗り越えてきた。
しかも、現在までの410年という歳月を超えて大事に保全されてきた。
これからだってきっとそうなるだろう。
いや、そうしなければならない。
さもなければ、これまでの歴史、これからの歴史をあまりに軽んじてしまうことになる。
「貞山運河は年度内に復興計画を策定し復旧を図っていく。」
宮城県土木部河川課のホームページにはこのように掲載されている。
県は、歴史の重みと幾世代にもわたる人々の思いに、きっと答えてくれるに違いない。
そう信じて今は、貞山運河の復旧に役立つことを我らとしても果たしていきたい。
※ 先日「何か行動を!」と電話をくれた『NPO法人 杜の考房』のNさん、今日わざわざ訪ねて来てくださった『さんの会』のSさん、多くの仲間とともに近々その第一歩を始めましょうね。
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