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夜な夜な昔のことを思い出してしまうようになってしまった。
それが単に記憶力が衰えていないことの証しなら、「われもまだ捨てたもんじゃない」といくらか胸も張れようものだが、どうもそうはいかない。
なぜなら、出てくるのは決まって忘れてしまいたい事柄だから。
こういう場合、歳が若かったころだったら、行きつけの居酒屋の片隅で、「忘れてしまいたい事や~、どうしようもない寂しさに~」(※)などとカラオケ曲でも歌い、憂さ晴らししていただろうが、今はもうかなり老け込んでその気力すら出てこない。
それに、好きだった日本酒は、血糖値が高くなり、とうの昔に飲むのを諦めた。
(※)河島英五作詞・作曲 『酒と泪と男と女』
肝心なことに役立たない記憶力も“良し悪し”だなんてさえ思う。
ところで、国木田独歩の短編作品に『忘れ得ぬ人々』がある。
作中の大津という人物は、二子玉川の渡しの先の溝ノ口の宿で、同宿の秋山を相手に次のような話をする。
『親とか子とかまたは朋友知己そのほか自分の世話になった教師先輩のごときは、つまり単に忘れ得ぬ人とのみはいえない。忘れてかなうまじき人といわなければならない、そこでここに恩愛の契りもなければ義理もない、ほんの赤の他人であって、本来をいうと忘れてしまったところで人情をも義理をも欠かないで、しかもついに忘れてしまうことのできない人がある。・・・』
平たく言えば、「忘れてはならない人々」と「忘れられない人々」ということになろうか。
夜ごと現れる我が忘れてしまいたいことの大半が、これら2種の人々に当てはまるから厄介だ。
とはいえ、我が生きた証しとして、祖父や両親、恩師はもちろん、受験勉強に励んでいた深夜に皆に内緒で夜食を差入れしてくれていた近所のおばちゃん、朋友などの「忘れてかなうまじき人々」とのエピソードを、それこそ“つれづれ”なるままに“そこはかとなく”書き連ね、我が子らに残しておきたいものだと常々思う。
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(近所の歩道に咲いていたヒマワリ)
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