大崎氏の居城であった名生城。その址内に位置する官衙(かんが)遺跡。陸奥の国府“多賀城”が築かれる前に、ここ大崎地方に律令政府の支配は及んでいたという。
しかし今は広い畑に姿を変え、往時の様子は吹きわたる風に重ね偲ぶのみか。
案内板には次のように記載されている。
国指定史跡 名生館官衙遺跡(みょうだてかんがいせき)
昭和62年8月17日指定
名生館官衙遺跡は、7世紀末から10世紀に大崎地方西部を治めていた官衙(役所)の跡です。昭和55年からの発掘調査で、多数の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)などが発見されています。なかでもこの城内地区(じょうないちく)には、周囲に板塀をめぐらした東西53m、南北61mの規模をもつ、政庁と呼ばれる役所の中心施設がおかれ、瓦葺きの正殿や、南北にならぶ2棟の脇殿などが建てられていたことが判明しています。
この役所が築かれたのは7世紀末頃で、陸奥の国府である多賀城より古い時期にすでに大崎地方にも律令支配が及んでいたことを示しており、東北の古代史を解明する上で注目されています。
古川市教育委員会
国指定文化財(記念物・史跡) 昭和62年8月17日指定
所在地:宮城県大崎市古川大崎
宮城県文化財保護課の公式サイト ⇒ こちら
しかし今は広い畑に姿を変え、往時の様子は吹きわたる風に重ね偲ぶのみか。
案内板には次のように記載されている。
国指定史跡 名生館官衙遺跡(みょうだてかんがいせき)
昭和62年8月17日指定
名生館官衙遺跡は、7世紀末から10世紀に大崎地方西部を治めていた官衙(役所)の跡です。昭和55年からの発掘調査で、多数の掘立柱建物跡(ほったてばしらたてものあと)や竪穴住居跡(たてあなじゅうきょあと)などが発見されています。なかでもこの城内地区(じょうないちく)には、周囲に板塀をめぐらした東西53m、南北61mの規模をもつ、政庁と呼ばれる役所の中心施設がおかれ、瓦葺きの正殿や、南北にならぶ2棟の脇殿などが建てられていたことが判明しています。
この役所が築かれたのは7世紀末頃で、陸奥の国府である多賀城より古い時期にすでに大崎地方にも律令支配が及んでいたことを示しており、東北の古代史を解明する上で注目されています。
古川市教育委員会
国指定文化財(記念物・史跡) 昭和62年8月17日指定
所在地:宮城県大崎市古川大崎
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