その昔、奥州探題の職にあり権勢を誇った大崎氏。伊達政宗との戦いに敗れて後、歴史の表舞台から姿を消した。名生城(みょうじょう)は大崎氏の居城。
城址に立つ案内板には、次のように記されている。
奥州探題大崎氏の居城
名生城址
(1350年頃~1590年頃)
名生城は奥州探題として広く東北地方を支配した大崎氏の本拠地となったところで、広大な段丘面を利用して築城され、規模・構想の雄大さは当時の大崎氏の権勢の大きさを示しています。しかし大崎氏は一二代義隆を最後に滅亡、その後、伊達政宗の岩出山城築城に際して豊臣秀吉に派遣された徳川家康がこの城に立ち寄ったことを最後に文献にもあらわれなくなったことから間もなく廃城になったものと考えられます。現在は農地に変わっていますが、近年の発掘調査で大館地区で大規模な溝を発見し、内館地区においては多量の焼け米が出土していることからこの地区には蔵があったものと考えられます。また現在も土塁や水濠をはじめ多くの空堀が残っており、複雑な構造を持つ大規模な中世城館であったものと想像されます。
平成4年3月 古川市教育委員会
▲名生城址案内板
▲位置図
名生城址 ⇒ 大崎市指定文化財(記念物・史跡) 昭和45年12月5日指定
所在地:宮城県大崎市古川大崎字名生館
城址に立つ案内板には、次のように記されている。
奥州探題大崎氏の居城
名生城址
(1350年頃~1590年頃)
名生城は奥州探題として広く東北地方を支配した大崎氏の本拠地となったところで、広大な段丘面を利用して築城され、規模・構想の雄大さは当時の大崎氏の権勢の大きさを示しています。しかし大崎氏は一二代義隆を最後に滅亡、その後、伊達政宗の岩出山城築城に際して豊臣秀吉に派遣された徳川家康がこの城に立ち寄ったことを最後に文献にもあらわれなくなったことから間もなく廃城になったものと考えられます。現在は農地に変わっていますが、近年の発掘調査で大館地区で大規模な溝を発見し、内館地区においては多量の焼け米が出土していることからこの地区には蔵があったものと考えられます。また現在も土塁や水濠をはじめ多くの空堀が残っており、複雑な構造を持つ大規模な中世城館であったものと想像されます。
平成4年3月 古川市教育委員会
▲名生城址案内板
▲位置図
名生城址 ⇒ 大崎市指定文化財(記念物・史跡) 昭和45年12月5日指定
所在地:宮城県大崎市古川大崎字名生館
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