東日本大震災で流失した霊場雄島の渡月橋が復旧し、平成25年7月1日に渡れるようになった。
早く行ってみなければと思いつつ過ごしてきたが、今日実行できた。
▲訪れた場所
▲馬の背・子馬
▲雄島
▲名籠
まずはJR仙石線陸前浜田駅の近くから国道45号を右折し、『馬の背・子馬』(利府町)を見に行く。
天気も良く、汗を拭きつつ、馬の背の突端まで行ってみる。
遊歩道入口の案内板には、「天然の桟橋と呼ばれ長年の波の浸食により今の形に」なったと記されている。
(注)”熊出没注意”の看板あり。ホントかな~。
▲馬の背
▲馬の背の突端
▲馬の背(子馬側からの眺望)
▲子馬への道(モミと松の林を行く)
▲子馬
▲子馬の付け根の断崖に咲くコオニユリの花
▲子馬(馬の背側からの眺望)
次は、本来目的その1の雄島。
真新しい渡月橋は、朱色が鮮やか。
多くの観光客が訪れている。
※ 雄島については ⇒ こちら
▲渡月橋と雄島
▲正一位御嶋瑱珠稲荷大明神
▲芭蕉と曾良の句碑(芭蕉は松島で句を詠んでいない。この句は別の場所でのもの)
芭蕉翁 朝よさを誰まつ しまぞ片心 芭蕉
松島や 鶴に身を かれほととぎす 曾良
▲ウミネコに餌をやるたくさんの観光船客
▲把不住軒(雲居禅師座禅堂跡)
▲頼賢碑(お堂の中に石碑がある)国重要文化財
▲餐霞亭主墓碑
※ 餐霞亭主墓碑については ⇒ こちら
ところで、松尾芭蕉は『おくのほそ道(奥の細道)』の中で、塩竈から舟で雄島磯に渡り、その後瑞巌寺を訪れたと記している。
しかし、この案内板には次のように掲載されている。
「元禄二年五月九日(一六八九・陽暦六月二十五日)、芭蕉は、塩釜から舟で松島海岸に着き、瑞巌寺に詣で、のち雄島を訪れたのである。」
この違いは、『おくのほそ道』が紀行文であり、印象深くするため、瑞巌寺→雄島を雄島→瑞巌寺と逆に記したことにあるとのこと(曾良の日記参照)。
したがって、案内板の方が真となる。
次は、本来目的其の2の東名水門遠望。
いつもは東名運河側から眺めていた水門を、今日は反対側から見たくて、名籠(なごめ)地区まで来た。
ここからかなりの距離にあり、蜃気楼のように見える。
▲東名水門(東名運河)
▲東名水門(ズーム)
▲八坂神社(名籠漁港脇の丘にある)
※ 東名水門については ⇒ こちら
早く行ってみなければと思いつつ過ごしてきたが、今日実行できた。
▲訪れた場所
▲馬の背・子馬
▲雄島
▲名籠
まずはJR仙石線陸前浜田駅の近くから国道45号を右折し、『馬の背・子馬』(利府町)を見に行く。
天気も良く、汗を拭きつつ、馬の背の突端まで行ってみる。
遊歩道入口の案内板には、「天然の桟橋と呼ばれ長年の波の浸食により今の形に」なったと記されている。
(注)”熊出没注意”の看板あり。ホントかな~。
▲馬の背
▲馬の背の突端
▲馬の背(子馬側からの眺望)
▲子馬への道(モミと松の林を行く)
▲子馬
▲子馬の付け根の断崖に咲くコオニユリの花
▲子馬(馬の背側からの眺望)
次は、本来目的その1の雄島。
真新しい渡月橋は、朱色が鮮やか。
多くの観光客が訪れている。
※ 雄島については ⇒ こちら
▲渡月橋と雄島
▲正一位御嶋瑱珠稲荷大明神
▲芭蕉と曾良の句碑(芭蕉は松島で句を詠んでいない。この句は別の場所でのもの)
芭蕉翁 朝よさを誰まつ しまぞ片心 芭蕉
松島や 鶴に身を かれほととぎす 曾良
▲ウミネコに餌をやるたくさんの観光船客
▲把不住軒(雲居禅師座禅堂跡)
▲頼賢碑(お堂の中に石碑がある)国重要文化財
▲餐霞亭主墓碑
※ 餐霞亭主墓碑については ⇒ こちら
ところで、松尾芭蕉は『おくのほそ道(奥の細道)』の中で、塩竈から舟で雄島磯に渡り、その後瑞巌寺を訪れたと記している。
しかし、この案内板には次のように掲載されている。
「元禄二年五月九日(一六八九・陽暦六月二十五日)、芭蕉は、塩釜から舟で松島海岸に着き、瑞巌寺に詣で、のち雄島を訪れたのである。」
この違いは、『おくのほそ道』が紀行文であり、印象深くするため、瑞巌寺→雄島を雄島→瑞巌寺と逆に記したことにあるとのこと(曾良の日記参照)。
したがって、案内板の方が真となる。
次は、本来目的其の2の東名水門遠望。
いつもは東名運河側から眺めていた水門を、今日は反対側から見たくて、名籠(なごめ)地区まで来た。
ここからかなりの距離にあり、蜃気楼のように見える。
▲東名水門(東名運河)
▲東名水門(ズーム)
▲八坂神社(名籠漁港脇の丘にある)
※ 東名水門については ⇒ こちら
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