ハレルヤ!  喜び、喜びおどろう

聖書のことばを中心に、2019年12月から、あふれる思いをブログにまとめています

失格者とならないように・・・私は甘かった

2020-08-10 10:41:26 | 礼拝説教
自分は、もう、救われている。神の導きと守りの中にいると、Ⅱテモテ4章7.8節を読んで、なんとなく安心していたのですが、間違いであったことが示されました。
Ⅱテモテは、困難、苦難の中を走り切ったパウロが遺言のようにして書いた手紙でした。

今、信仰の走路の途中にいる私は、次のことばに目をとめなくてはならない

ピリピ3:13 わたしは、自分はすでに捕らえたなどと考えてしません
Ⅰコリント10;12 立っていると思う者は、倒れないように気をつけなさい。
Ⅰテモテ4:16 そうすれば、自分自身をも、またあなたの教えを聞く人たちをも救うことになります。

主日に語られた説教も、榊原康夫先生の注解書も
「自分は失格者になるかも知れない」という恐れを持って、いつも緊張して、走らなくてはならないという結論に導いていました。

自分は楽したいという、自己中心の思いがみことばを読む時に、みことば理解を微妙に歪めようと働いている。


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足腰が弱って来た私ですが、走り続けます

2020-08-10 09:15:29 | 礼拝説教
「ああ、宣教のためには、厳しいトレーニングを頑張らないと、賞はもらえない。せっかく信仰を始めても、結局地獄に行くことになるのか。
こんな、怠けているような自分は、すでに失格者だ。もう駄目だ!!」  

もし、このように思うなら、きっとそれは、読み間違いだと思います。
私は疲れやすくて、よく昼寝をします。座って立つという動作でさえ、だんだん難しく感じるようになっています。

パウロがコリントの人々に書いた手紙を読んでこう思ったのでした。
9:24 競技場で走る人たちは、みな走っても、賞を受けるのはただひとりだ、ということを知っているでしょう。ですから、あなたがたも、賞を受けられるように走りなさい。
 9:25 また闘技をする者は、あらゆることについて自制します。彼らは朽ちる冠を受けるためにそうするのですが、私たちは朽ちない冠を受けるためにそうするのです。
 9:26 ですから、私は決勝点がどこかわからないような走り方はしていません。空を打つような拳闘もしてはいません。
 9:27 私は自分のからだを打ちたたいて従わせます。それは、私がほかの人に宣べ伝えておきながら、自分自身が失格者になるようなことのないためです

冠とはどういうことだろうかと、検索して、同じくパウロがテモテに書いた手紙を読んで考えました。

賜物に応じて、聖霊の導きと促しに応えて、精一杯お仕えし続けよう。途中で不適格、不合格と自ら判断した、信仰生活から退くことのないようにして、勇敢で忍耐しているなら信仰が全うされることに希望が持てると思いました。

Ⅱテモテ
4:7 私は勇敢に戦い、走るべき道のりを走り終え、信仰を守り通しました。
 4:8 今からは、義の栄冠が私のために用意されているだけです。かの日には、正しい審判者である主が、それを私に授けてくださるのです。私だけでなく、主の現れを慕っている者には、だれにでも授けてくださるのです。


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