紫陽花記

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「太陽の子守歌」第二部1-38

2020-09-06 11:37:10 | 実録🌞太陽の子守歌★第一部・第二部

「太陽の子守歌」第二部1-38

一 春名荘入所

アキコ
璃子たち夫婦は、太郎の荷物を積んで春名
荘に向かった。正月の八日。太郎はまだ、養
護学校の高等部三年生だ。卒業式には、一時
帰省して参加することにする。
身体障害者養護施設は県内に数少ない。順
番待ちの状態が続いている。太郎の卒業後の
ことは、一年前からその道に詳しい人に、相
談していた。
太郎が璃子たち夫婦と離れて暮らし出した
のは、小学校入学前のやはり一月からだ。県
庁所在地の市にあるゆり学園から、隣の敷地
にある県北養護学校に四年通い、県北養護学
校寄宿舎に二年と、県南養護学校の六年。
泣き泣き引き離した幼い時が蘇ってくる。
今の太郎は、新しい所に希望や楽しみを期
待するのか、少しも悲しい顔はしない。
春名荘の玄関に施設長、指導員、寮母さん
が出迎えてくれた。数カ月前に一週間ばかり
体験入所をしていたので、あらましの雰囲気
は知っていた。
会議室へ通された。部屋割り。担当の寮母
の紹介。入所の心得など、説明を受ける。
生活の場は107号室。四人部屋の窓際。
窓からは若い桜の裸木とさざんかの花が見え、
その先に雑木林が続いている。
「いらっしゃい」
同室の三人の先輩が挨拶をした。
三人のそれぞれのベッドの周りには、その
人なりのものが並んでいる。テレビ。ビデオ
やラジオ。たんすや衣装箱など。
「よろしくおねがいします」
璃子と夫の正志は太郎の車椅子を押して、
一人ずつのベッドに近づいて挨拶をする。
太郎は緊張した顔で頭を下げた。
「よろしく」六十歳だと言った山口さんが、
右手で太郎の手を握った。





二 四人部屋

太郎は、テレビは余り見ない。ポップス系
の歌は好きでよく聞く。新しく買ったカセッ
ト装置の付いたラジオを、ベッドの横に置く。
中形の整理たんすの上に、洗面道具と電気剃
刀を置いた。
同室の先輩たちは、自分の領域のベッドの
上で見ていた。
一通り片づけ終わったころ、担当の寮母が
顔をのぞかせた。
「お家では、何てお呼びしているんですか。
太郎君でいいのかしら」
「ええ、そうです。よろしくお願いします」
「太郎君。仲良くしてね」
太郎は微笑んで右手を出した。寮母は右手
を水色のユニホームでこすると、太郎の手を
握った。
「長居は禁物かもよ」
璃子は夫の耳に近づいてささやく。正志は
「うん」と太郎を見ながら頷いた。
「後はお任せ下さい。何かありましたらご連
絡しますから、ご心配なく」
寮母が笑顔で言った。
「お母さんとお父さんは帰りますよ。太郎君
は、今日から春名荘で寝るんだからね」
「頑張るんだぞ」
璃子は太郎の顔をのぞき込んだ。
太郎が正志の手を離さない。
「おやおや。太郎君元気がなくなったぞ。楽
しみにしてたでしょうよ。春名荘に来るの」
璃子が笑いかけると、太郎が頭を二、三度
横に振った。
「次の、次の日曜日に面会に来ます。すぐだ
からね。頑張ってな。じぁね」
正志の言葉を合図に、二人は廊下に出た。
「太郎君。パパとママにバイバイってね」
寮母の声が聞こえた。


三 腰巾着

二週間ぶりに春名荘を訪問する。
璃子夫婦の姿を見た寮母の一人が、寮母室
に入るとアナウンスをする。
「佐々木太郎君。お父さんとお母さんが面会
にいらっしゃいました。ロビーへ来て下さい」
間もなく、太郎が杖を突いた山口さんの後
から、車椅子をバックさせてきた。全身にマ
ヒのある太郎は、手を使っての前進より足で
蹴って進む後退が楽なのである。小学校高学
年頃から左腕を背もたれに掛け、右手で左横
のパイプを抑えて、体を斜めにして右足で蹴
る。この方法で車椅子を操作した。
「こんにちは」
山口さんは腰を屈めて挨拶をした。
「お世話になっております」
「元気でしたよ。なぁ、太郎」
山口さんが太郎の頭を撫でた。
「太郎君は山口さんの腰巾着だよな」
食堂前のロビーにある長椅子に、掛けてい
た入所者の一人が言った。
「そうだ。どっこへ行くんでも一緒だ」
「そう、よかった。ありがとうございます」
「いえいえ。太郎、今日はよかったな。パパ
もママも来てくれて」
居室のベッドは一番低くしてあった。ベッ
トと壁の間に、畳一枚がひいてあって、ベッ
トから下りる時、まず足の方から畳に下り、
それから車椅子に乗る。
「何回か頭から落ちちゃって、すごい音たて
ていたけど。この頃うまく下りてますよ」
山口さんは「なぁ」と太郎に言った。
「太郎君。散歩に行こうか」
璃子が誘うと、太郎は「うん」と頷いた。
春名荘は三棟からなる。璃子が太郎の車椅
子を押して、山口さんも杖を突きながら春名
荘の敷地内を散歩した。


四 四季折々

春名荘では、四季折々に催し物があった。
四月 花見
五月 一泊旅行
八月 夏期帰省 納涼祭
九月 果物狩り
十月 運動会
十一月 文化祭
十二月 クリスマス祭 餅搗き大会
一月 冬期帰省
そのほか三か月ごとに誕生会。
単調な生活になりがちの入所者に、少しで
も気分転換が必要であった。部屋内のいじめ
や喧嘩。僅かな物音にもいら立ったりする。
太郎もすっかり春名荘に慣れたころ、ロビ
ーの長椅子に掛けていた一人が、正志と璃子
に言った。
「太郎君。この前も騒いでいましたよ」
太郎が時々山口さんに向かっていくことが
あるらしかった。大声でわめきながら山口さ
んの杖を振り回したり、布団を引っ張ったり
したという。原因を言葉の話せない太郎に聞
いたが、うずいたり、首を振ったりするだけ
で要領を得ない。
「山口さんが、太郎君をかまうんですよ。そ
れで時々頭にきちゃうみたいですよ」
入所者の一人が璃子夫婦に耳打ちした。
居室に行くと、山口さんはベッドに横にな
っている。カセットテープの演歌を聞いてい
た。璃子夫婦を見ると、イヤホーンをはずし
て起き上がった。
「なんか太郎がご迷惑かけたそうで」
「ああ。いやぁ、別に大したことじゃないで
すよ。な、太郎」
太郎の表情からは太郎の内面を探れない。
腰巾着のように可愛がられていたと、安心
していたのだが。不安が過る。


五 薬

「太郎君が二、三日前から様子がおかしいん
です。ちょっと風邪ぎみで、こちらの嘱託医
に診て頂いて、お薬は飲んでるのですけど」
春名荘の寮母から連絡がきた。
祭日だった。
仕事が休みの正志が、早速春名荘に迎えに
行った。体調の悪い時は、連れ帰って自宅で
療養する。五十人からの入所者を四十人の職
員が世話をしている。その中での病人は世話
する方も大変だが、流行性のものだとしたら
他の入所者にもうつる危険もあることだ。何
にしても保護者としたら、手元で看るのが一
番ではある。
正志が二時間半位のうちに戻ってきた。
璃子が玄関に出迎えた。太郎の不随運動が
激しい。
「どうしたの太郎」
「なんだかわからないけど。二、三日前から
らしいよ」
太郎は少し熱っぽい。赤い顔をしている。
身体全体の不随運動が強い。いつものように
這おうとするが、転がってしまった。
璃子は抱き起こし居間まで引きずった。
太郎は笑顔を造ろうとするが、うつろな目
で璃子を見た。唇も痙攣する。
璃子は太郎の様子を観察し続けた。
食欲はあるのだが、自分でスプーンを使っ
て食べられない。璃子が食べさせた。
食後に春名荘から持ち帰った薬を飲ませる
ことにする。小さい時から飲み続けているテ
ンカン薬と風邪薬。飲ませてから思い出した。
大分前のことだが、腸の薬を飲ませた時、う
んとだるそうな様子をした。
「薬の相乗効果で、こうゆうこともあるので
すよ」と言われて、改めて調剤をしてもらっ
たことがあった。


六 医師と患者

璃子は太郎につき添っていた。
寝床の太郎の不随運動が強く続いている。
「どう、具合は」
正志が顔をのぞき込む。
「うん。きっと薬のせいよ。薬の効きめが切
れたら。次、飲ませなければわかるわ」
「何時間位すれば切れるんだろう」
「・・・・・・・・・ 四、五時間以上だと思うわ」
深夜零時過ぎ、強い不随運動が徐々に治ま
ってきた。それまで不随運動のため眠りを妨
げられていた太郎が、眠りについたようだ。
正志は自室に戻り、璃子は太郎の隣の布団
に横になる。
太郎の不随運動はいつもの程度に戻ったが、
風邪ひきは治っていないので病院に行くこと
にする。その前に、現在飲んでいるテンカン
薬の名前を知らないと、医師に説明するのに
困るので、春名荘の看護婦に聞くことにした。
「申し訳ありませんが、嘱託医の長塚先生に
聞いて頂けませんか」と言う。
長塚医院に電話した。
「何の薬ですって。素人が聞いてわかります
かね」
長塚先生は声を強めた。
「病院に連れて行くのには、何の薬をどの位
飲んでるか言わないと、ほかの薬をいただく
のに困りますもので」
「それは、そうかもしれないが」
少し声の質を和らげて、長塚医師は薬の名
前と分量を答えた。
町内の病院に連れて行く。
医師は持参した薬を薬剤室で調べさせた。
「薬は多種類飲みますと、利き過ぎたり、副
作用を起こしたりするのですよ。適量でも重
なると多くなるんですね」
新しい薬をもらって帰った。


七 会議室

自宅療養をしていた太郎を、春名荘へ送っ
て行った。107号室では、皆ベッドの上に
いた。イヤホーンを耳に入れている山口さん。
一人は雑誌を見て、一人は目を閉じている。
「またお願いします」
「おかえり。太郎、元気になったか」
山口さんが笑顔をつくった。自宅に持ち帰
った衣類をたんすに戻し終った時、電話で応
対してくれた若い看護婦が来た。
「お帰りになる前に会議室の方へ」
廊下を璃子と並んで歩きながら「どうもす
みません。私の言葉が足りなくて」と言う。
看護婦の謝っていることの意味が分からな
いまま、会議室のドアをノックした。
会議室の長いテーブルの窓側に、施設長と
長塚医師。左壁側に指導員の丸山。寮母長の
田中と看護婦長の村越が並んでいた。
璃子は右壁側の真ん中に腰を下ろした。
「この間の薬の件ですが。お母さんはどんな
つもりでおっしゃったのかお聞きしたいので
す。長塚先生も我々職員も一生懸命働いてい
るつもりです。ですが、・・・・・・」
璃子の解釈では、どうやら薬の名前と量の
問い合わせに、長塚医師も春名荘側も、いい
感じを抱いていなかったらしい。
 璃子は、過去に薬の副作用を経験していた
ことと、決して長塚医師の診療や処方箋に対
しての、何らかの非難めいた気持ちがあった
わけではないと説明した。
「施設を運営していくには、職員と保護者と
入所者の協力なくしては、考えられない。電
話は顔を見て話すのと違って誤解を招きやす
いので、なるべく会ってお話しましょう」
施設長はみんなの顔を見回して言った。
璃子は、自分の問い合わせ方に、言葉のた
りない所があったのだろうかと思った。


八 友の死

ゆり学園入所時と県北養護学校時代に、太
郎のクラスメートだった小森忠司君が死んだ
と聞かされたのは、初七日も過ぎた頃だった。
太郎を連れて小森君の家を訪ねた。
冬の太陽が麦畑を乾かしている。細い農道
を曲がると、白御影石の塀に囲まれた屋敷が、
明るい庭先に見せていた。
「ああ、太郎君。ありがとうね。忠司も喜ん
でいると思うわ」
小森君のお母さんは、遺影の飾られた座敷
に案内して、祭壇のろうそくに火をつけた。
「連れて帰った時は、体がグズグズになって
いて、近くの医者は、うちでは手に負えない
からって、大きい病院に移されたの。たった
二晩看病しただけで死なれたわ」
小森君のお母さんは遺影を見上げた。
「できれば、私が七十位まで生きててほしか
った。ちょっと早過ぎたわ」
悔いの言葉は続いた。
「もっと頻繁に会いに行けば良かった。遠く
の学校にでも行っていて、下宿でもしている
つもりでいた・・・・・・」
身体障害者養護施設に入所させていたが、
元気で理解力もあったので安心していたと言
って、お母さんが顔を歪めて泣いた。
小森君のお祖母さんが座ったまま襖に寄り
かかっている。
「ばあさんもがっかりしたみたいで、すっか
り元気がなくなってしまったのよ」
お母さんは、また涙を拭いた。
「小森君、死んじゃったね。可哀想だよね。
太郎、元気でいなくっちゃ駄目だよ」
太郎は、小森君の死を理解しているのだろ
うか。帰り車の助手席の太郎は、無表情のま
ま前方を見たままだった。改めて、自分は精
一杯太郎の養護をしようと璃子は思った。


九 部屋替え

春名荘に入所してから三度目の部屋替えが
あった。一度目は、入所して一年目。三年毎
の部屋替えだから、入所七年目になる。
部屋替えは山口さんからの電話で知った。
101号室になった。寝たきりのエダ君。
弱視に耳の遠い原さん。文士と呼ばれている
タキ君が一緒だ。
璃子夫婦が面会に訪れた時、太郎が身ぶり
手ぶりで頼んだらしく「太郎が電話しろって
言うもんだから」と山口さんが言った。
山口さんにはずっと面倒を見てもらった。
璃子夫婦は、感謝の意味も含めて、面会時
には必ず土産を持参した。
三月末は部屋替えがあって、四月になると
新しい入所者が三人入った。中年男性二人と、
高校卒業したばかりのマチコちゃんもいた。
 色の白い、おしゃべりのマチコちゃんは、
山口さんのお気にいりで、山口さんの新しい
腰巾着になった。太郎はそれでも、山口さん
の部屋に遊びに行くが、時々マチコちゃんと
喧嘩をするようになった。
「太郎君、ちょっと可哀想なんですよ」
寮母が言うには、山口さんは以前と違って
あまり太郎を構わなくなった。散歩に行くに
もいつも山口さんに付いて行っていたのに、
この頃は一人でいることが多くなったと言った。
「太郎君。山口さんと遊ばないの」
璃子が聞くと、太郎は頭を横に振った。
「なんで? 遊んでって行けばいいでしょ」
太郎が表情も変えずに頭を横に振る。
「山口さん、可愛い娘の方が良くなったんだ
ろう。しようがねぇな」
正志が言った。
璃子は、ポツンとしている太郎を想像した。
春の陽の眩しい日だった。


十 騒ぎ

「太郎君が暴れているんです」
春名荘から電話が入った。午後十時近かっ
た。
「何かあったのですか」
「解りません。この前もそうでした。廊下を
這って来て、寮母室のドアをドンドン叩いた
り、自分の靴をぶん投げたり。凄いんです」
寮母は、とにかく来て見てくれと言う。
正志と璃子は春名荘に向かった。
春名荘の門は閉じていた。間もなく、寮母
が出て来た。廊下の蛍光灯は減数され、薄暗
い。自分たちのスリッパの音が響いた。
夜勤のもう一人の寮母が太郎を車椅子に乗
せて連れて来た。
「太郎君、どうしたの」
いつもの太郎の表情ではなかった。目がつ
り上がり、こめかみがピクピク動いている。
「太郎君はお話ができないから、聞いても解
らないんですよ。部屋の人に聞いても要領得
ませんし」
「何かなければ。こんなことは・・・・・・」
車の中の太郎は、まだ怒りの表情だ。
「太郎君どうしたのよ。ねぇ」
「しゃべれないんだから困るよな。何かあっ
たのには違いないと思うけど」
「そうね。凄い顔してるものね」
家に着く頃には、太郎の表情は落ち着いた
が、なんとなく険しさが残っていた。
「二、三日家にいたら落ち着くだろう」
正志が太郎の横顔を見て言った。
三日が過ぎた。太郎はいつもの状態に戻っ
たらしく、食欲もあって元気だ。
「太郎君、明日春名荘に行こうね」
璃子が春名荘の名前を言った途端、太郎の
目がつり上がり、両腕を大きく交差させて、
バッテン印を作った。


十一 闇

「アシタ、イクヨ」
太郎は、璃子が仕事の合間に顔を見せると
言った。
「そう。明日、行くの。じゃあ、お母さんが
送って行くね。あんまり行かないと春名荘の
みんなに忘れられちゃうものね」
そう言っている間に太郎が考え込んだ。そ
して、バッテン印を両腕でする。
「行かないの。行くんじゃないの」
太郎が頭を横に振る。目が徐々につり上が
っていく。
「行きたくないの。そう、いいよ行かなくっ
ても。また行きたくなったら行こうね」
太郎はほっとした顔をする。
このような状態を何度も繰り返した。
春名荘の駐車場から引き返した時もある。
半分ほどの道程を走ってから帰った時もある。
原因は解らない。春名荘の寮母たちに聞いて
も、明解な答ではない。
何度も言いふくめて帰荘させても、真夜中
に電話をもらって迎えに行った時もあった。
璃子は、心の病にかかっていると思った。
それにしても、必ず原因があるはずだ。
入所者にそれとなく聞いてみた。
部屋の住人の耳が遠くて弱視の原さんは、
身体が自由に利くので、太郎の世話をしてく
れていたようだ。世話をするのだが、原さん
の思うように太郎が動けなかったらしく、怒
鳴ったり、叩いた時もあったと聞かされた。
「勝手なお願いですが部屋を変えて頂けませ
んか」
そう願い出た。
原因は他にあるのかもしれない。山口さん
に遊んでもらえなくなったからでは。などの
意見があったが。
騒ぎ出して七か月。部屋を変えてくれた。


   十二 糖尿病

五月の連休に太郎を迎えに行く。
部屋替えしてから急におとなしくなったと
指導員が言う。目には生気がなくぐったりと
している。騒いで、騒いで、散々てこずった
太郎がおとなし過ぎた。
家に帰ると、全身をかきむしる。水をほし
がる。飲んだと思うとおしっこだと言う。そ
のような状態を繰り返す。
救急センターの紹介で隣町の病院へ行く。
診察をした医師は、神経内科医のいる所へ言
った方がいいと言った。紹介状の宛先は、つ
くし野愛護病院神経内科。
つくし野愛護病院神経内科医は、触診した
後採血をする。時間外の診察だったので、結
果は明日聞く事になった。
帰宅すると間もなく、つくし野愛護病院か
ら電話が入った。
「大変危険な症状のようです。すぐ入院して
下さい。詳しいことは後で」
抱え降ろしたばかりの太郎を、また車に乗
せた。
「命の保証はできません。会わせたい人はお
呼び下さい。できるだけの治療はしますが。
なにしろ、血糖値が八百では。普通、四百で
も危ないというのですから」
神経内科医の不二越医師は、一通りの治療
が終わると、璃子をナース室に隣接する部屋
に呼んで言った。
『死』という文字が脳裏を過る。指先の震え
を堪えて正志に電話をする。
「それで、裕次にだけは知らせて」
大学院に通う裕次には、すぐに連絡はつか
ないかもしれない。鼓動の鳴る音を聞きなが
ら、璃子は太郎の傍に付き添った。
遅い時間、正志と裕次が来た。
三人は眠り続ける太郎の顔を見続けた。


十三 食事療法

インスリン注射と、食事療法を始める。
太郎は極端に少ない食事量に不満を示す。
大人の最低必要カロリーの千二百カロリーで
は、今までの半分ほどだから、いかに、今ま
でがカロリーオーバーをしていたかだ。
甘い物も好きだし、発病前は特に水分も多
く取った。運動はしないし、なるべくしてな
ったというか、周りの者の無知が病気にして
しまったとも言える。
自分では一切の物を手に入れて食べること
のできない太郎なのだから、特に璃子たち家
族が勉強をしておくべきだった。
一週間は点滴をし続ける。血管が細く弾力
がないので、注射針がなかなか入らない。入
ってもすぐに液が漏れたりして、看護婦たち
にも苦労をかけた。
璃子は付きっきりの看病をした。
太郎のベッドの側の車椅子で眠った。真夜
中も採血があったり、点滴交換があったりし
て、殆ど眠らないような状態であった。
一週間は注射針と点滴との格闘の日々だ。
「安定してきましたので二十二日までインス
リン三回で、月曜からは持続性のあるインス
リンを一日一回の予定。できれば最終的に、
経口薬ですむようにしたい」
不二越医師が言ったのが、二週間過ぎ。入
院時三十八キロの体重が二キロ減っていた。
入院から二十二日目。血糖値はまだ平常値
にはなっていない。持続性インスリン一回。
「経口薬までには時間がかかりそうだ。経口
薬になっても、十日位様子みませんと」
不二越医師が言っていたのだが、翌日には
「経口薬で、もっていけそうだ」と言う。
病院の栄養士に、糖尿病患者の食事療法の
指導を受けて、退院したのが三十五日目。
太郎の体重は、三十キロに落ちていた。


十四 ちぢんだ右手

その青年は、ちぢんだ右手を揺らしながら
話し続けた。
ある程度の年齢になるまで、別に変だとも
思わなかったですよ。みんながそうなのだと
思っていましたから。右手が使えないのも、
当たり前であって、不自由じゃなかった。だ
って、最初から使えなかったのですからね。
それが、ある時、他の人達と違うことに気
がついたのです。恨みましたよ。親を。
何が原因かなんて聞きませんでした。その
うち、母親の飲んだ薬のせいだと分かりまし
たけど。母親は、ずっと僕に対してはすまな
いと思い続けていたようですけど。僕は責め
はしませんでした。責めて母親の悲しい顔も
みたくはありませんしね。ワルなんかにいじ
められた事だって、何度もありましたけど、
それを、母親には言えなかったですね。
だんだんに |この体とは、どんなことを
してもつき合っていくしかないと思うように
なりました。一生、仲良くつき合っていくし
か。自分の体ですからね。
青年は、璃子たち夫婦の連れている太郎に
目を移した。哀れみとも、親しみともつかな
い目は、少し笑った。青年の言葉は、そのま
ま太郎の言葉のように聞こえた。
最近、急に左手の親指と、両足が思うよう
に動かなくなってしまったのです。親指が利
かないという事は、雨が降っても、傘がさせ
ません。やってみると分かりますけどね。首
の、頸椎のヘルニアが原因で、しばらく牽引
してなんとか良くなりましたけど。その時、
初めて身障者の気持ちが分かりましたね。今
まで使えたものが使えなくなって、初めて不
自由だと思うものなんですね。
璃子は、太郎の隣のベッドに入院していた
青年の言葉を、時々思い出した。


十五 パンチ

「うちのお母さんは、普通のお母さんと違う
から」と次男の裕次が言った。
そのセリフの中には、あらゆる面で物分か
りが良い、と言う意味が含まれているらしか
った。『ふんふん、そうかい、そうかい』な
んて思いながら、あんまり悪い気はしないが
期待に添うには、璃子は大変だなと思う。
「彼女、また遊びに来るってさ」
次男の鼻唄を聞きながら、現代の若者の交
際は、三十年前の自分たちが結婚した時代と
は大分違うなと思っているうち、長らく御無
沙汰している、熊本の義母を思い出した。
璃子は義母からしたら、あまり良い嫁とは
言えないだろう。第一、障害者の長男と次男
の子育てで、親孝行らしいことは一つもして
いない。
「今度の土曜日、彼女が泊まるから」
裕次はちょっと照れながら言った。
「あら、泊まるの」
「うん。ちっとずつ慣らさないと」
『彼女をか、それともこの母親をかい』
またもや熊本の義母を思い出した。
「同郷の娘を貰っておくれ。そうすれば少し
は帰ってこられる。どうしても女の実家に行
く回数が多くなるものだ。方向が違えばなお
さら帰ってこれなくなるから」と言い聞かさ
れていながら、宮城県の璃子と結婚した正志。
「早い段階でわが家の事情を話しておくよう
に」とだけ言い聞かせた璃子。裕次は、障害
者の兄の太郎と、両親の世話はしなければな
らない立場だと彼女に話し、そのことは、彼
女の両親の耳にも入れるように言ったらしい。
「まぁ、よろしく頼みます」
璃子は何か言おうとしたが、何の言葉も見
つからない。
「お母さんだったら大丈夫」と次男が言った。


十六 エンデバー

若田さんを乗せたスペースシャトル・エン
デバーが着陸した。
璃子は、テレビの画面を見ている次男、裕
次のため息が聞こえたような気がした。
小学五年生だった頃の裕次を思い出す。
「僕、大きくなったらどんな仕事をしたらい
いかなぁ」
「学校でみんな、そんな話しているの」
「ううん。みんな気楽だからしないよ。僕は
気楽じゃないから」
裕次は壁に貼った兄、太郎の写真を見て言
った。
「裕ちゃんは、何になりたいの」
「僕ねぇ、電気屋さん」
「電気屋さんでもいろいろあるよ。テレビと
か冷蔵庫を売るお店と、電気工事屋さんと」
大学受験のためだけの高校はいやだ。と高
等専門学校の電気科に入学して、五年寄宿舎
住まい。大学の航空宇宙工学科へ編入して、
大学院を卒業するまで、アパート暮らし。
裕次とは、長い間離れて暮らした。
「家を継がなければならないヤツは、最初っ
から家から通える所へ就職しろ」と言う高専
の恩師の言葉どおりに、車で四十分の場所に
ある会社の開発部に入社した。
璃子は次男には、生まれながらにして、重
荷を背負わせてしまったと思った。もっと自
由に、好きなことをさせてやりたいと思う。
だが、自分たち夫婦のことより、兄のことを
心にかけている裕次に、感謝さえしていた。
「年取ったら、近所の子供たちなんかのおも
ちゃや、電気器具を直してあげたりして暮ら
したいな」と裕次がつぶやいた。
父親の現役引退の話が出た時だった。
裕次の夢と現実。璃子は、もしかして、裕
次の本心なのだろう。と思った。


十七 腸閉塞

食餌療法の続いている太郎は、用意した食
事だけでは物足りないらしく、いつもなにか
をねだる。たしなめたり、時にはカロリーの
少ないものを与えたりする。
春名荘での食事時には、隣の人の分までス
プーンでかすめ取って、口に入れてしまうこ
とも度々あったと聞いた。
月一回の通院の為に帰省していた。
その日は、いつもの様子と違っていた。朝
食が終わって数種類の薬を飲ませた後だ。眉
間に皺を寄せて涎を流している。
[どうしたの太郎君」
璃子の問いに反応も示さず、椅子にもたれ
ている。額に手を当てると熱い。
「ちょっと熱があるね。寝ていようよね」
居間に布団をひき、太郎を横にする。
風邪をひいたふうでもないので、様子をみ
ることにした。
午前十一時半。いつもはこの時間になると
昼食をはじめる。
「太郎君。お昼食べようか」
太郎は、閉じていた目をうっすらと開け、
頭を横に振った。
「食べないの。パン食べるんでしょう」
また、目を閉じたまま横に振った。肩で息
をしている。朝より熱が上がったようだ。
「太郎、太郎君」
太郎は返事をしない。救急車を要請する。
入院の用意を手早くすませ車に積んだ。
つくし野愛護病院へ入院。
璃子は、その日から一週間全面付き添う。
担当医の説明では、腸閉塞のような状態。
腹部にガスが溜っていて、腸の動きが悪い。
その為痛むのと、肺炎も併発している。
二日間点滴。流動食から始めて、普通食が
食べられるようになった。一週間後退院。


十八 長男の夢

二十八歳になった太郎を背負っている。首
をひねって太郎の顔を見た。蒼白の顔で目を
閉じている。ライトが当たっているのか明る
くて、その顔ははっきりと見える。
三十キロもない体重が重みを増し、璃子の
背中が冷たくなっていく。長男の死期が迫っ
ているのを感じた。
裕次が兄の名前を呼んだ。璃子の背で、石
のように固まっていた太郎が目を見開いた。
そして、「ユウチャン」と呟いた。
璃子は眠りから覚めた。トイレに行くため
にベッドを下りる。頭の中にはまだ長男の姿
がある。施設からは何も連絡は入っていない。
ということは、変わったことはないというこ
とだ。
階段を下りながら夢の意味を考えた。
璃子の心の中に、少しでも長男を疎んじる
気持ちがあるのだろうか。と考える。もしそ
うだとしたら、太郎は可哀想だ。
「お母さんが年を取って、世話ができなくな
るまで生きてていいのよ。体に気をつけて面
倒見れるように頑張るから。そのかわり、お
母さんより少し早く逝ってよ。貴方を見送っ
た後でないと、私も心残りで死ねないから」
廊下の薄暗がりを歩きながら長男に言う。
再び寝床に入る。何やら夢を見続けている。
正志の呼び声で目覚めた。
長男の夢が脳裏にへばりついている。
朝食の支度をする間に忘れかけたが、夫と
次男と向き合って食事をしているうちに思い
出した。だが璃子は、夢の話はしなかった。
言葉にすれば、正夢になるような気がしたか
らだ。
「いつも心配しててもしょうがないけど、太
郎どうしたかな。元気だと思うけど」
正志が独り言を言った。


十九 小綬鶏の森

璃子は、太郎が眠りについたのを確かめて
から、初めて窓の外を見た。曇り空に杉と松
の緑が黒ずんで見える。ここ三階からは、病
院に隣接する森林公園の木々と、病院職員用
の託児所のピンクの屋根が見える。
耳を澄ましてみる。小綬鶏の鳴き声がする
はずだが。真夏に鶯の囀りがした。季節はず
れと思うのは、梅に鶯などの言葉のせいだ。
「チョットコイ・・・・・・チョットコイ」
小綬鶏はまだこの森にいた。数年前に太郎
につき添った時と同じに、森の奥の方から聞
こえる。窓に額を押しつけて目を凝らす。
「とりあえずこの部屋にいてね。二、三日。
ベッドが空いたら移動しますから。安くして
おくから。一万円だけど、半分。五千円でど
う。ごめんね。今、いっぱいなのよ大部屋」
婦長がドアから顔を覗かせて言った。
主治医の蛯名先生は、太郎の病状は、食道
と胃との繋ぎ目辺りが潰瘍になっていて、胃
カメラを通しただけでも出血をした。絶食一
日。おもゆ、三分粥、五分粥、七分粥。普通
食を一日様子見て、問題がなければ、退院は
一週間目になるでしょう。と言った。
「五千円ですか。もっと安くなりませんか」
「ならないの。二、三日我慢して」
「丸福は使えないでしょう」
「うーん。退院する時会計にかけ合ってよ」
婦長は笑いながら言った。
璃子は改めて個室を見回した。
太郎は点滴をされている。
春名荘からの連絡で駆けつけた時、太郎の
布団は、吐血で茶褐色に染まっていた。
救急車には指導員に乗ってもらい、璃子は
自家用車で病院まで来た。
「チョットコイ、・・・・・・」弱い鳴き声だ。太
郎と同じに、体力が落ちているのだろうか。


二十 緑色のコップ

「取ってくれないかコップ。乾燥機の横、窓
のところだ」
正志が、洗面台の鏡に向かったまま、洗濯
機から洗い物を籠に入れている璃子に言った。
乾燥機と窓との間を覗くと、七、八センチ
の窓枠に、緑色のコップが置いてある。
しばらく前からの疑問だった。
二階の寝室に置くわけはないと思うし、ど
こへ置いてあるんだろう。と思ったのは、次
男の彼女が家に泊まり始めて何度目かの時。
一瞬思った程度だし、大したことでもないの
で、すぐに忘れていた。
可笑しさが込み上げてきた。大声で笑った。
「失礼な」
正志は自分も笑いながら、それでも怒る。
「いい場所見つけたわね。そこなら誰も分か
らないわよ」
正志がコップを受け取ると蛇口をひねる。
璃子は居間の方に気を配り、声をひそめた。
「彼女に見られたら、それこそだものね」
正志は、コップの中から部分入れ歯を取り
出した。流水ですすぐと、左下の奥歯にはめ
込んだ。
「やんなっちゃうよ。少し緩いんだ。ほっぺ
を動かすだけではずれるんだから」
頬を動かして入れ歯をはずして見せた。
「いやね。そんなして遊んでいるから緩くな
るのよ。歯医者さんだって、何度も直させら
れたらたまらないわよ」
「仕事に行く時やゴルフに行く時ははずすん
だ。下向いた途端に、ポロッじゃあな」
「そう言えば私の母親も、入れ歯をはずして
飾って置いて、歯茎で食べていたわ」
「あのう、パンが焼けました」
居間の方から、息子の彼女の声がした。
正志が、唇に人差し指を縦に当てた。


二十一 二度目の喀血

「今度は、お母さんがいなくてもいいよな」
蛯名先生の言葉に、太郎が頭を横に振る。
「いやか。大人なんだから大丈夫でしょうよ」
また、太郎が頭を横に振る。
「今度はお母さん、家に帰りますよ。太郎君
は一人で病院にいられるでしょうよ。ね」
蛯名先生にはイヤだと答え、璃子にはウン
とうなずいた。
三年前の糖尿病での入院以来、その度に全
面付き添を続けて来た璃子だ。喀血をしたと
春名荘から二度目の連絡をもらったのは、朝
の六時十分。前回同様に指導員が付き添って
の再入院となった。
手足は冷たく、全身が青白く艶がない。ど
す黒い嘔吐物は、鼻から入れた管を通って流
れ出る。点滴をして病室まで運ばれた。
二階のナース室の前の部屋。症状の重い人
が入る部屋だ。部屋に落ち着くのを待って、
正志は車で指導員を近くの駅まで送った。正
志にしても、急に会社を欠勤するわけにもい
かず、指導員には前回同様に電車で春名荘ま
で帰ってもらった。
「前回は退院も施設に行くのも、ちょっと早
かったのかもね。今度はゆっくり治療しまし
ょう。その為にも太郎君は自立しなくちゃあ
な。いつまでもお母さんと一緒じゃ駄目」
蛯名先生の言葉に璃子が頷き、太郎が不安
気な顔をした。
翌日。
「夕べ泊まったのですか」
太郎の内視鏡検査を終えた蛯名先生が、璃
子に声をかけた。
「帰りました。大丈夫だったようです」
「それはよかった。大人だもんな」
先生は大きめの前歯を光らせて笑った。入
院計画書には、三週間の予定と書いてある。


   二十二 顔合わせ

「僕は、小学校の頃は、そういう兄貴がいる
ことが嫌だった。ですが、だんだん兄貴がい
るから、僕が一度も入院したりしないですん
だ。僕の代わりに兄貴がしているのかもしれ
ないと思えるからです。前回予定していた食
事会を延期したのは、兄が入院していたから
ですが、今日も再入院しているのですけど実
施しました。肉体的には苦労をかけるかもし
れませんが、精神的には、苦労をかけないつ
もりでおります」
裕次が言った。
璃子の発言に続いてのことだった。璃子は、
初めに言わなければならないことと思ってい
た。承知の上であろうとは思うが、一度は言
葉に表しておかなければならない。太郎とい
う障害者が家族の一員だということを。
「私は、本人同士がよければ良いと思ってい
ます。何も教えておりませんので、どうぞよ
ろしくお願いします」
佐代子の母、紀子が言った。
「教えようと思った時は、自活したいと出て
行っちゃいましたからね」
佐代子の父、亨が笑った。
「何事もだんだんに覚えるものですから」
正志が、アルコールの利いた顔で言う。
太郎が二度目の喀血で入院して三日目。
裕次と佐代子の結婚式を執り行うホテルで
の食事会。佐代子の両親とは初顔合わせ。
裕次は豪雨の中での集まりより、食事代の
心配より、座が静まり返るのを恐れていたよ
うだ。 璃子は何の予備知識もない初対面者
に、どんな話題が良いのか見当がつかないで
いた。
十畳の和室が静まった。璃子は裕次の顔を
見た。佐代子の両親の言葉に安堵したのか明
るい。佐代子は淡い色合いの和服で、うす紅
色の顔を裕次に向けていた。


  二十三 おんぶ

「カビが生えているんだって、米粒大の。強
い薬だから長くは使えないそうだけど。それ
が消えてからでないと退院できないだろね」
再入院から二週間目に見つかった食道にで
きたカビ。正志は「長引くな」と呟いた。
それから十日。
外泊許可が下りた。カビも消え、食道炎も
大分良くなったという診断。
太郎は、久しぶりの外出に嬉しそうだ。
車椅子から自家用車に乗せる。太郎の腕を
首に巻かせ抱き上げた。体重が減ったような
気がする。
夜中に何度も尿意を訴える太郎。太郎の呼
び声に、正志も璃子も飛び起きた。その度に
二階から下りてくるのも面倒だし、璃子が側
に寝ることにした。
太郎の声で目覚める。
「おしっこなの。シビンでする?」
太郎が首を横に振ってトイレの方向を指す。
「トイレに行く? 解った。お母さんがおん
ぶしていくよ」
太郎を座らせてから、璃子が背中を出す。
首に両腕を絡ませて、おんぶした。揺すりあ
げてから歩き出す。入院前よりずっと軽い感
じがする。時計を見ると午前二時。
便器に座らせるとすぐに排尿した。再びお
んぶする。
「太郎君。何キロ位あるんだろね」
おんぶしたまま脱衣所の明かりをつけ。ヘ
ルスメーターに乗った。七十七キロ。璃子が
おおよそ五十キロを少し切るのだから、二十
七キロ半位だ。
廊下を歩きながら、楢山節考の一場面を思
い出した。息子の背に揺られていく老母。璃
子は、太郎の背に揺られることは永遠にない
だろうと思った。


   二十四 次男、裕次のでき心

裕次の婚約者の佐代子も加わっての食事も
終わり、子供の頃の話になった。
「裕ちゃんも怪我して入院した事あったよ」
「あっそうそう。あれは痛いでき心だったよ」
裕次はすっかり忘れていたらしい。
小学校の三年生だったと思う。璃子が庭仕
事をしていた時だ。
裕次が座敷に腹ばいの姿勢で、裏庭に面し
たガラス戸を開けて呼んだ。
「おかあさん。足が・・・・・・」
「どうしたの」
「足が・・・・・・」
裕次の足が片方ぶらりとしている。自転車
で転んでぶっつけたと言う。
病院へ連れて行って診てもらうと、骨折し
ているとの診断。入院。一日牽引した後、石
膏で固められた。

裕次は明君とマー君と、橋からの坂道で自
転車に乗って遊んでいた。二十度程の傾斜だ。
橋のふもとまで行っては漕がずに下る。それ
を繰り返していた。そのうち、お尻だけ乗っ
けたまま、両手両足を自転車から放したら、
空を飛ぶような気分になれるんじゃないかと
思った。ほんの一瞬かすめた思いだ。
実行に移す。両手両足を放した。自転車は
真っ直ぐ下っていく。うまくいったと思った
時、小粒のジャリに乗った車輪が斜めに滑り
出した。道路脇の交通標識のポールに向かっ
て行く。裕次の片方の足が、ポールに強く打
ちつけられた。立ち上がった時、片方の足が
地面に着けない。自分の自転車には乗れない
ので、一番小さい車体のマー君の自転車にま
たがって、片足で漕いで帰ってきた。と言う。
一週間後退院。
全治三か月。その間休学。


   二十五 電子レンジ

キッチンの窓際に設置していた。璃子たち
夫婦の結婚十周年記念に買ったもの。電子レ
ンジの出始めの頃で十五万円はした。ガスコ
ンロの側にある為、油が飛んで汚れている。
それでも性能にはまったく衰えはなく、遅い
帰宅の正志の晩ご飯には重宝した。ラップで
チンすれば作りたてのように温かくなって、
文明の利器は大したものだと思っていた。
「ちょっと重いぞ。いいかい」
裕次の声がして、婚約者の佐代子と二人で
電子レンジを運びだす。
「どうするの、それ」
「誰か使う人がいれば、やるんだけどな。今
時は、皆どこの家でもあるしなぁ」
「それ、買った時は高かったのよ」
「今は同じ性能でもうんと安いからね」
「・・・・・・」
「とっておく? とって置くだけでもエネル
ギーの無駄だよ。それともリサイクル屋に持
っていく? でもなぁ、買ってから三年位の
内のものでないと、引き取ってくれないよ」
電子レンジの置いてあった場所には、新し
いオーブンレンジが備えられた。佐代子が、
いろんな料理をするには、オーブンの付いて
いる方が便利だと言う。
結局、役場の環境課に電話する。
「御宅の整理番号とお名前を書いて、今度の
木曜日に分かる所へ置いて下さい。業者が取
りに行きます」
粗大ゴミの日。午前八時過ぎトラックが止
まった。荷台には既に冷蔵庫が乗っている。
璃子が見ていると、二人の作業員が静かな
丁寧さで、レンジを中古の冷蔵庫の側に並べ
て乗せた。
「私達のレンジ、またどこかで働けるわね」
璃子は去っていくトラックに手を振った。


  二十六 人前結婚式

平成九年十月十日(金)晴れ
裕次と佐代子の人前結婚式が始まった。黒
の燕尾服と白いウエディングドレスで入場す
る。二人の誓いの言葉が終わると、会場に集
う皆が、夫婦と承認する拍手を送る。指輪の
交換。佐代子のベールを上げて、裕次がキス
をした。
金屏風の前。サイドテーブルに移動して、
それぞれに結婚届に署名なつ印する。先輩夫
婦が保証人の欄に記入した。これでめでたく
裕次と佐代子が夫婦となった。
披露祝宴となり先輩友人のスピーチが続く。
璃子はビールとジュース瓶を持って、十一
ある丸テーブルを回る。正志も同様に回る。
「人前結婚式は初めてですけど、さわやかで
いいですね」
裕次の友人が笑顔で言った。
何か月も前から準備した式。裕次と佐代子
が何もかも取りしきり、正志と璃子は親族だ
けの二次会の心配をしただけだ。
結婚式を一週間後に控えた四日。春名荘の
運動会があった。正志が参加する為に春名荘
に出向いた。正志の顔を見るなり寮母が、
「太郎君、夕べ血を吐いたんですよ」と言う。
居室に行って見ると、ベッドに寝ている。そ
のまま、運動会には参加せずに太郎を連れ帰
り、つくし野愛護病院で受診する。
つくし野愛護病院に入院させてもらう。大
して悪い病状ではないが、遠距離の親族が宿
泊するのと、結婚式が終わるまで太郎に気を
配ってはいられない状態だと思ったからだ。
璃子は、いっとき太郎を忘れていた。
「兄は式に出られるかな」
裕次はたった一人の兄弟に出てほしかった
らしい。だが、食事制限されている太郎が、
かえって可哀想な気もして外した。


   二十七 ハネムーン

裕次と佐代子が新婚旅行から帰ってくる日。
午前二時。枕元の電話が鳴る。
「あ、春名荘です。太郎君がまた血を吐いた
んです」
夜勤の寮母の声。容態の変化を心配した寮
母は、すぐに来てほしいと言う。緊急入院に
なった場合の手はずを正志と話し合った上、
璃子は身支度を整えて車に乗る。平均時速七
十キロ。四十分程で春名荘に着く。
医務室の隣の静養室に明かりがついている。
指導員が出迎えた。二人の寮母が夕方から
の太郎の様子をメモしたものを持ってきたの
と、寒くないようにとダウンベストとズボン
を持ってくる。
太郎の顔色は青いが、吐いた血は少量だっ
たようだ。余り心配ないと判断する。が、と
にかく家に連れ帰ることにする。水分を与え
ても、与えた分のものを吐いていたらしい。
熱がある。手足が冷たく、その全部を縮めた
状態だ。四人掛かりで車に乗せた。
午前三時。正志が出迎え寝床へ運ぶ。体温
三十七度五分。氷枕をさせる。極端に少ない
尿の量と春名荘からのメモに書いてある。が
太郎が尿意を訴える。シビンに色の濃い尿を
七十CCする。
太郎が眠りについた。璃子も隣の布団に潜
る。新聞の配達人の足音がして、玄関の郵便
受けに新聞が差し込まれた。
余り眠らないうちに、正志が起きた様子。
簡単な朝食で仕事に出かけた。
璃子は店を休むことにする。太郎の食欲と
食後の様子次第では、病院に行かなければな
らないからだ。太郎は普通の食欲で、食後も
吐くようなことはなかった。
午前十時半、裕次と佐代子が十三日間の海
外旅行から、無事帰ってきた。


   二十八 交替の時

野菜の刻む音で目覚めた。パジャマのまま
キッチンを覗く。佐代子がサラダを作ってい
る。璃子の黄色の割烹着を着けていた。
「おはよう。新米主婦は大変だね」
「あ、おはようございます」
璃子は、今朝は朝食の用意はしなくていい
のだ。と思うが、落ち着かない。着替えると
洗濯機に水を入れる。正志の下着、太郎のも
の、裕次の下着や自分のものを放り込み、洗
剤を入れてスイッチを入れる。
「なんか一人分、なかったよ」璃子が言うと
「旅行での洗濯物がいっぱいあるので、後で
洗濯機お借りしてやりますから」
佐代子がちょっと赤い顔で言った。
璃子は、洗濯物を干しただけで、朝の用事
が終わってしまった。
昼食も佐代子が作った。
太郎は、いつもの役割分担でないのを何と
なく感じているようだ。夜のおかずは何かと、
佐代子に聞いている。
「はい、食費。これは我々の分で、太郎の分
は一万円。今度から、毎週土日に帰ってくる
ことになるから」
裕次に正志と璃子夫婦の食費と、太郎の分
を手渡す。家計のやりくりは、裕次と佐代子
に任せることに話がついていた。
太郎の体調は、精神的なものが大きく作用
していると感じる。体力もないし、頻繁に家
に帰ることで、心身の健康を取り戻させたい
と思った。毎週土日は自宅で世話をすること
にする。このことは昨日の夕食の時に提案し、
裕次にも佐代子にも了解を得た。
後は近所への挨拶回りが終われば、完全に
裕次のことは佐代子に託せる。太郎の介護だ
けに心を砕けばいいと気が緩んだ。
太郎二十九歳。


  二十九 拒絶反応

「三回もシーツ交換したんですよ。吐いて汚
れたものですから。いえ、血は吐いていませ
んが、うんと苦しそうですので。とにかく来
て頂けませんか」
帰荘してから三日目の午後十一時。太郎の
様子が悪いと、春名荘から電話が入る。
璃子が行く。少し落ち着いた様子だが、連
れ帰ることにする。帰り車の中では、身を縮
めて苦しげにする。揺られたことで尚更苦し
くなったらしい。
家人は皆起きて待っていた。すぐに寝床へ
横にするが、胸を押さえて吐き出す。茶褐色
の古い血だ。間をおかずに吐く。
「駄目だ。頼むしかない」
正志が救急車を要請する。
「嘔吐物が肺に入ると大変だから、しっかり
横を向かせて」
当直の医師が大声を上げた。
大して悪い箇所もなく、食欲もあって心配
はないと言うことで、三日後退院する。
夜は璃子が付き添うことにした。
太郎はなかなか眠りにつかない。眠りかけ
ては目を開き、目を閉じかけては目を開けた。
「どうも、自分でストレスをかけているよう
に思える」と春名荘の看護婦が言っていたが、
春名荘に対して拒絶反応が出るのは、人間関
係などよりも何か他にあるのかもしれない。
「太郎くん。春名荘に行きたくないの」
太郎が泣き顔になって頷いた。
「行きたくなかったら行かなくっていいよ」
頷きながら、眠りに入り切らないうちに目
を開けた。璃子は繰り返し言って聞かせる。
午前二時頃やっと眠りにつく。
やつれた眠り顔だ。
退院して一週間後には眠れるようになった。
安定剤も、十日過ぎにはいらなくなった。


  三十 会議

璃子は、社会福祉協議会の会議室にいた。
太郎がこのまま春名荘に行かれない状態に
なった場合、どんな町の福祉サービスを利用
できるのか知りたかった。
相談をした福祉課の担当者から、ケアサー
ビスコーディネーターを経て集まった十五人
の人達。町医者の議長。ケアセンター長。地
域ケアコーディネーター。在宅介護支援セン
ターの看護婦。保健婦。二つのボランティア
の会。福祉課の職員。無償、有償のヘルパー。
太郎が在宅になった場合に、どんなサービ
スが必要か。どんなことができるか。との会
議を開いてくれていた。
「太郎君の一日の様子が見えてこないが。ど
んな手助けができるか、聞かせてほしい」
有償ヘルパーの川田さん。
璃子は太郎の一日を説明する。
太郎と同室で寝。仕事前に三十分から一時
間の車椅子を押しての散歩や、入浴の様子を
順を追って話す。
同席していた太郎は、自分の一日の様子を
言われて、「ふっ」と笑った。
「専門的なことはできないが、話し相手や遊
び相手にはなれると思いますから」
ボランティア〃はとの会〃の山下さん。
「今は、太郎君は羽を休めたいところだと思
いますよ。余りいっぺんに接触を持っても、
疲れると思いますし」
町の福祉課の高島さんが言った。
「第一番に、なんとか春名荘に行かれるよう
に努力してみて、どうしても無理のようでし
たら在宅に。それでも家族以外の人との交流
をできるだけさせたいので、皆さんの協力を
お願いしたいと思います」
太郎のために集まってくれた人達に、璃子
は深く頭を下げた。


  三十一 現実

雨が降らない限り散歩に連れ出す。
三十キロの太郎だが、車椅子に乗せたり降
ろしたりするのには、体力がいった。五十肩
も痛いが、背中の筋肉痛がひどい。限界を感
じ始めていた。
夕方太郎が泣く。昨日もそうであった。ま
るで幼児のように泣く。
「飽きてきたのかしら」
「そうみたいですね」
夕食の支度をしている佐代子が頷いた。
「太郎君。うちにいるの飽きちゃったの」
璃子が聞くと太郎が大きく頷いた。
「春名荘に行きたくないって言っていて、今
度は家にいるのにも飽きたっていうの」
太郎が何度も頷く。
「そっ、じゃあ行こう。春名荘に行こうね」
土曜日迎えに行く予定で、月曜に送った。
その日は、誕生会だと指導員が言った。
「ケーキがでるんですか? 太郎にも食べさ
せて下さい。カロリーオーバーになっても。
食べれないのもストレスだと思いますので」
糖尿病の太郎には、発病以来好きなケーキ
を食べさせていない。太郎の心身に、食事制
限が大きく作用しているように思える。
二週目も月曜に送った。その翌日指導員か
ら電話連絡があった。
「自宅から戻ってきた日が良くないですね。
そのつど、電話するのもなんなんですが」
太郎が眠れないまま、同室のシュウちゃん
の装着している尿管を引っ張ったと言う。
尿管がはずれてしまうと、病院に行って着
けてもらうしかない。夜勤の寮母が何度言っ
て聞かせても、悪戯をしようとした。と言う。
なんとか、春名荘に帰れた。と、町の福祉
課と社会福祉協議会へ、お礼の電話をしたば
かりの時だ。


  三十二 空きっ腹

二週毎に帰宅するようになっていた。
「遅くにごめんなさい。太郎君は騒いではい
ないのですが、さっきから眠れないみたいで
何度ベッドに寝かせても起きてきちゃって」
夜勤の寮母から電話が入った。午後十一時
過ぎ。
「風邪でもひかせちゃったら大変だと思って。
それに同室の入所者にも悪いので、静養室の
方に移動させたのですけどね」
「そうですか。申し訳ありませんね。仕方が
ないので、いっぱい着せておいて下さい」
電話を切る。璃子は眠れないまま、一時間
位たってから、春名荘へ電話をした。
「パジャマの上に羽毛のベストとジャンバー
を着せて、下はズボンを二枚履かせましたけ
ど。本人は、静養室の入口に座り込んでいま
す」
さっきの寮母が言ってからつけ加えた。
「あ、それから、太郎君おなかすいて眠れな
いのかしら? グーッなんて、おなかが鳴っ
てましたのよ」
「・・・・・・夕飯は五時でしたよね」
「ええ、五時過ぎです。太郎君は食べるのも
早いから、すぐに終わっちゃいますし」
「ああ、なるほど。そうかもしれませんね。
家では、食べ終るのが午後七時から半頃です
から、寝るまでにおなかが空くほどではない
と思いますね」
「たまたま聞いちゃいましたもんで。今まで
も眠れなかったのは、おなかが空いてたから
でしょうかね」
「そうなのかも。私たちにしても、余りおな
かが空き過ぎていると、眠れませんものね」
翌日。カロリーの少ない食物を捜し、こん
にゃくを原料の食物を送ったが、結局それも
食道炎を引き起こすことになり取り止めた。


三十三 ウェディング企画からの電話

「太郎さんにって言うんですけど」
「誰?」
「上田さんとおっしゃっています」
次男の嫁の佐代子が、受話器を持った手を
腰の後ろに回して言った。
「アザミウェディグ企画の上田と申します。
太郎さんいらっしゃいますか? 結婚式場な
どの紹介を、独身の方にさせて頂いています。
太郎さんいらっしゃいましたら」
佐代子に代わって電話に出た璃子に、上田
と名乗った女性が言った。
「いるのは居りますけど」
帰省中の太郎は炬燵に入っていた。自分の
名前を言われて、母親の璃子の顔を見た。
「代わりますので、太郎さんですかと言って
みて下さい」
太郎の耳に受話器を押しつけた。
「もしもし、太郎さんですか」
「・・・ アウイ」
「あ、もしもし、太郎さんですか」
「ア、アウイ」
「あ・・・・・・。もしもし、あの、お母さんに電
話代わって下さいね」と受話器から漏れ聞こ
える。璃子が代わると「失礼しました。わか
らなかったものですから。失礼します」と、
電話が切れた。
「何だったんですか」
佐代子が不審な顔をした。
「うん。結婚式場なんかの案内みたい。どこ
で調べてくるのかしらね」
「いろんな名簿があるみたいで、それを売っ
てる所もあるらしいですよ」
「まさか、障害者とかの記載はないのでしょ
うけど。もっとも、障害者でも結婚する人は
いると思うけど。でもうちの太郎は・・・・・・」
太郎はもう、テレビに見入っている。


三十四 赤ちゃん帰り

月曜日に太郎を春名荘に送った時、指導員
と寮母長、担当寮母と会議室に集まった。太
郎の不眠と精神不安定に、どう対処したらい
いかを話し合った。
「赤ちゃん帰りみたいなものかもしれません
ね。もう一度、育ち直しをするのでしょう」
と町の福祉課の高島さんが言っていたのを、
璃子は引用して話した。
「小学校に入る年から手放したものですから。
甘えたい盛りだったでしょうし。病気して、
その頃まで戻ってしまったのでしょうね」
指導員が春名荘側の説明をする。
「安定剤はなるべく飲ませないようにして。
二、三日飲ませたら一日省くとか。その点は
看護婦に任せて頂けますか。昼寝はさせない
ようにしているんですけど、どうしても昼食
後は眠くなるようです」
安定剤の事は家族間でも話し合った。
副作用の心配はあるが、本人が不眠で苦し
むのと、また同室のシュウちゃんに悪戯した
り、騒いで他の入所者たちに迷惑を掛けるよ
りはいいのではないか。との結論に達した。
つくし野愛護病院の処方でもあるし。心配は
いらないと思う。
火曜日、指導員から経過報告がきた。
「月曜日の夜は落ち着いて眠りました。火曜
は、ウフフッ。寝る前安定財を飲ませていた
んですが。ふらふらシュウちゃんのベッドの
柵に捕まって、シュウちゃんの顔に噛み付い
たらしいんですよ。シュウちゃんも頭突きで
応戦したらしいんですが。駄目だと思ってコ
ールしてきたみたいです」
シュウちゃんは、十五歳の時バイク事故で
首を折った。首から下はまったく使えない。
シュウちゃんの頭突きと、口にくわえた棒
で、コールボタンを押す図が浮かんできた。


三十五 虫歯

「太郎君は口開かないからなぁ。歯医者に連
れて行ってもやってもらえないかもねぇ」
指導員は、以前近所の歯科に連れて行った
時も、結局治療できなかったと言った。
正志も同じことを言う。
「そんなこと言ったって、それじぁあ痛いの
を我慢させるわけ? 可哀想よ。どっかにあ
はずよ、やってくれる歯医者」
璃子の言葉に佐代子も「そうですよ」と頷
いた。
救急センターに電話する。
「障害者なんですけど。歯科医を・・・・・・」
「こちらは歯科の方は解らないんです。県の
歯科医師会にでも問い合わせて下さい」
電話番号は解らないと言うので、電話局に
問い合わせる。県の歯科医師会では、県南に
ある保険センターに、障害者専門の歯科があ
ると教えてくれた。
予約を取り太郎を連れていく。
若い女の先生と助手二人が、太郎を治療台
に寝かせる。前回の初診の時は正志が付き添
った。レントゲンを撮り、歯石を取っただけ
だったが、今日は抜かなければならない二本
のうちの一本を抜くと言う。
太郎の口に器具をかませて広げる。右上奥
歯の歯茎に麻酔を打つ。太郎が大声を上げて
抵抗する。璃子の押さえている手を振り解く。
「危ないですから網を掛けましょう」
先生の指示で太郎を移動させ、治療台の上
に網の付いた台を載せて、太郎を横たえる。
網で肩から下を固定した。もう一度口を広
げる器具をかませる。助手一人が太郎の頭と
顎を押えつける。一人が吸引器を構える。
「はぁい。ちょっと我慢して。痛くないでし
ょ、麻酔が効いているんだからね」
太郎の奥歯が造作無く抜けた。


三十六 満足度百パーセント

「今日の夜ケーキを作りますので、太郎さん
の食事、加減しておいて下さい」
次男の嫁の佐代子が来てから、四回目のケ
ーキ作りをすると言う。日曜日の朝。
帰省中の太郎に言うと、大きなケーキの形
を両手で作って、喜びを表現した。
朝食のパンを半分に減らす。六枚切りの食
パン一枚がいつもの量だが、今朝は回りの耳
をすべてはずす。
昼のパンも半分だ。
夜のおかゆは、いつもは三百グラムだが、
二百グラムに減らして、太郎用の器に入れる。
一日千四百カロリーに抑えるには、主食で
コントロールするのが一番しやすい。太郎は、
朝食も昼食も減らされて不満そうだったが、
夕食後のケーキの話をすると納得をした。
食卓には唐揚。ビーフンの炒めもの。中華
風サラダ。スープ。ワインなどが並ぶ。
咀嚼のできない太郎用の食べ物は、すべて
みじん切りにしてある。佐代子が台所を仕切
るようになってから、璃子に聞きながら、用
意するようになった。
「太郎君、ゆっくり食べなさい。良く噛まな
きゃあ駄目よ」
とは言っても、咀嚼運動のできない太郎は、
噛む動作を二、三回しただけでのみ込んでし
まう。用意された刻み食品は、瞬く間に食べ
てしまった。太郎が冷蔵庫の方を指さす。両
手でケーキの形を作って催促する。
「ちょっと待ってね。みんな一緒に食べよう
ね。裕ちゃんが切ってくれるからね」
裕次が切ったケーキを太郎の器に入れると、
素早い動作でスプーンを握った。
「太郎。味わいながら、ゆっくり食べな」
正志の声も聞こえない様子で、顔中クリー
ムだらけになって食べている。


三十七 突然のように

何度か低血糖の症状を起こした。食後にき
まって腹が痛いと訴える。体重も極端に減っ
てきている。足にむくみもある。
春名荘の嘱託医からの勧めで、つくし野愛
護病院へ太郎を入院させたのは、平成十一年
三月二十日。糖尿病悪化を懸念し、食事療法
をしていた。それから六日後。
「あまりおなかが痛いと苦しむので検査しま
した。腸閉塞状態です。ガスが充満していて、
このまま食べさせ続けたら腸が破裂してしま
います。そうなれば助かりませんし、緊急に
手術しても太郎君はこれだけ痩せていますし。
体力的に助からないと思います」
レントゲン写真を見ると、太郎の腹部は、
全体がガスのため黒く写っている。
蛯名先生は腕組みをしたまま考え込んだ。
「血糖値など、数字的には悪くはないですけ
ど。口から食べ物を入れないでガスを抜くに
は点滴しかない。本人が嫌がって針を抜かれ
でもしたら危険だが、なんとかやって見ます」
璃子は朝晩見舞った。
入院二週間目。午前九時。璃子が病室に入
っていくと、太郎のベッドの周りに蛯名先生
と外科の医者と看護婦が四人。太郎の名前を
大声で呼んでいる。太郎は意識が無く、激し
いけいれんを起こしていた。
「低血糖を起こしてしまって。腸の破裂を心
配したのですが、それはなかったようです」
蛯名先生は紅潮した顔で説明した。
「尿の出が悪いし、このまま意識が戻らない
こともあります。お父さんに電話して頂いた
方が・・・・・・」婦長が璃子に言った。
正志と裕次が駆けつけ、佐代子も来た。
意識が戻ったのは夜も更けてからだ。
「パン・・・・」太郎が好きなパンを食べたいと
璃子に言ったのは、それから四日後である。


三十八 戦い

発作後全面付き添いを続けていたが、安定
したので朝晩の見舞いに切り替えていた。
十六日朝。再度発作を起こす。前回より激
しい。コールブザーを押す。看護婦が来る。
「ちょっと待ってて下さい」
医者の指示を仰ぎにか、部屋を出て行った。
発作は間を置かずに起き、太郎は歯を食い
しばる。唇が噛み切られ血が吹き出す。もう
一人の看護婦が、ゴムのマウスピースを噛ま
せた。それを強く噛み歯が倒れ抜け落ちた。
熱は前回の発作から、三十八、九度台が続い
ている。午後になっても発作は治まらない。
「なんとか楽にできないのですか」
「先生に聞いてきます」
蛯名先生が来た。
「軽い薬を注射しますけど。そのままになる
ってことも・・・・・・敗血症になっていますし」
太郎の動きが静かになった。意識はない。
丸三日過ぎ意識が戻った。極端に体力を失
っている。言葉は発しない。注射の時「ウー
ウー」と訴える。痛いのだろう、左手が注射
液で膨らんでいる。意識のある日とない日が
交互だ。璃子は太郎の意識のある時は、コッ
プに少量の水を汲み、黒砂糖を溶かし、太郎
の口にスプーンで含ませる。
「お母さんだよ、 解る? そう、解るの。
甘いの、おいしい? うん、おいしいよね」
太郎は僅か五ミリほど顎を引いて頷いた。
二十一日夜、裕次と璃子が見舞った。意識
ははっきりしていて、先に帰る裕次を目で見
送っていた。二十二日朝も意識があって璃子
に答えた。午後七時、仕事を終え見舞うと息
が荒い。意識はない。一旦帰宅し、正志を待
って、再び病院へ。「スウスウ」と眠っている。
大丈夫そうだと安心して家に戻った。
午前三時半。璃子の枕元の電話が鳴った。

               おわり


あとがき

障害者の長男と私たち家族の記録を、まと
めようと思っていた。
三十年と七か月間のさまざまな出来事。そ
の中で出会った人々。苦しみ。悲しみ。辛い
中でも笑った事もあった。他人の言葉もさま
ざまで、傷ついたり助けられたり。基本的に
は人間って優しいと思えた。
第二部の三十六、〃満足度百パーセント〃
までの原稿を、編集者のすだとしおさんに届
ける約束日は四月二十四日であった。その前
日息子は逝った。
第二部の三十六、〃満足度百パーセント〃
が最後の予定だったのに。
遺品を整理しつつも肉体の無くなった事が
納得できないでいた。息子の頬をさすり励ま
した感覚がまだ右の掌に残っている。激しい
発作に苦しむのを見かねた。もう、楽になっ
てほしいとも思った。いや、自分がくたくた
になるまで介護を続けたい。思いが交錯した。
「頑張るのに疲れたら、頑張らなくってもい
いよ。それでも頑張る? そう、頑張るなら
お母さんも応援するわ」
私の問いに息子が頷く、ほんの少しの動き
でも私には勇気を与える。
希望と絶望が交互にやってきた。
平成十一年四月二十三日。午前三時五十八
分。長男永眠。行年三十歳。死因、敗血症。

短説の会に入会して十年目。『太陽の子守
歌』を書こうと思ったのは十六年前。原稿用
紙二枚で書く短説は、私の生活のリズムにあ
っていた。それまで書き留めていたものも、
事柄毎に短説の長さにした。
が、まさか、長男、良治の最期まで書くこ
とになろうとは、思ってもいなかった・・・・・・。
解放された息子よ。安らかに。

 お読みいただきありがとうございました。