カトリック情報 Catholics in Japan

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訃報 澤田和夫 神父様の逝去

2024-04-12 09:41:59 | 教会行事
 カトリック東京大司教区の訃報を転記します。お名前や写真は、しばしばいろんな記事で見ていましたが、お会いした記憶はなく、著書を読んだ記憶もありません。もしかしたら、カテドラルの司祭叙階式で会衆の一人として参加した折に、実はお会いしていたのかもしれませんが、司祭も大勢いらっしゃいますので、どなたがどなたなのかわかりません。ですので、私自身のコメントは書きにくいのですが、無事に救われていらっしゃることを願います・・・。


(写真は「司教の日記」より)

訃報:使徒ヨハネ 澤田 和夫 神父
2024年04月11日

訃  報

使徒ヨハネ 澤田 和夫 神父が2024年4月11日(木)午前0時40分、老衰のため入居先の施設にて帰天されました。
享年104歳でした。どうぞお祈りください。
葬儀ミサ・告別式の日程は以下のとおりです。

使徒ヨハネ 澤田 和夫 神父 葬儀ミサ・告別式
日時:2024年4月18日(木)13:00
場所:東京カテドラル聖マリア大聖堂
司式:菊地 功 大司教

*共同司式される司祭はアルバ、ストラ(白)をお持ちください。
*当日、11:00~12:30の間にお別れの時間を設けます。

【略歴】

1919年12月9日        東京都渋谷区に生まれる。
1920年4月21日        麻布教会にて受洗。
1951年12月21日       司祭叙階(ローマにて)
1954年12月~1961年9月   真生会館付
1961年10月~1969年10月   川口教会主任
1969年11月~1974年5月   清瀬教会主任
1976年1月~1988年3月    東京カトリック神学院養成協力者
1989年4月~1994年3月     関口教会助任
1994年4月~2002年3月    浅草教会主任
2002年4月~2002年6月    青梅教会小教区管理者
2002年7月~2006年3月    千葉地域協力(千葉寺教会居住)
2006年4月~2012年1月     高円寺教会協力
2012年2月~2017年11月    ペトロの家居住
2017年11月          介護施設に転居
2024年4月11日        帰天

*供花は、澤田神父の遺志により、辞退させていただきます。

                         事務局長
浦野 雄二


富の正しい扱い方 聖ヨハネ・クリゾストモ

2024-04-12 07:59:47 | 格言・みことば
自分の富を貧しい人々に分け与えないのは、貧しい人々から富を盗み、彼らの生活手段を奪うことです。私たちは自分の富ではなく、彼らの富を持っているのです。

聖ヨハネ・クリゾストモ



9-2-3 「ドイツ帝国の死亡証書」

2024-04-12 05:55:30 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
3 「ドイツ帝国の死亡証書」

 グスタフ王は当代随一の名将といわれる。
 古代ギリシア・ローマの戦術につうじた彼は、まったく独創的な戦術をあみだした。
 すばやい移動ができるように騎兵隊を縮少し、歩兵隊の間隔を大きくし、騎兵のあいだに歩兵を配置した。
 また、ふつう一線に配置される軍隊を二線にし、交互に攻撃ないし撤退できるようにした。
 銃や大砲も新式であった。軍規はきびしく、掠奪は処罰され、戒律がゆきわたっていた。
 そしてグスタフ二世は一六三〇年六月、ドイツプロテスタント救援を口実に、領土拡大の野心をもって軍を動かした。
 リシュリューはいまやデンマーク王にかえて、このスウェーデン王支持にまわり軍資金の提供を約する。
 三一年夏、不敗の将軍ティリーの皇帝軍を破ったスウェーデン軍は、北ドイツ一帯を制圧し三二年には南ドイツにはいってミュンヘンを陥落させ、オーストリアをめざした(ティリーは三二年四月重傷を負って死去)。
 これをみたバレンシュタインは、皇帝たちに対する恨みからか、ドイツ統一の野心からか、グスタフとひそかに結託しようとした。
 グスタフは思いまどったあげく、拒否したが、この人物が信用できなかったからであろう。
 自尊心を傷つけられたバレンシュタインは、逆にスウェーデン王と対決することとなった。
 皇帝は辞を低くして、バレンシュタインの再登場を懇請したのである。
 彼は全軍に対する無条件の全権委任を条件として、ようやくこれに応じた。
 こうしてバレンシュタインの軍は、一六三二年十一月十六日、ライプチヒ近郊リュッツェンで、スウェーデン軍に遭遇する。
 皇帝軍は「イエズス・マリア」と、スウェーデン兵は「神明の加護あれ」と叫びつつ、白兵戦を展開した。
 夜までつづいた激戦は、スウェーデン軍の優勢に終わり、皇帝軍は退いたが、戦争そのものを終わらせるようなものではなかった`。
 しかしスウェーデンは大きな犠牲をはらった。
 陣頭にあったグスタフ二世は、乱戦にまきこまれて戦死した。
 もちまえの向こう見ずと近視がわざわいしたのだ。
 王の遺体は長いあいだ探されたすえ、おりかさなった死体の下からひきだされたという。
 「北方の獅子王」とよばれ、バルト海を湖水とするような帝国をつくろうと夢みた、王者の最期であった(あとをついだのは、のちにデカルトやグロティウスを宮廷に招いたクリスティナ女王である)。
 カトリックのスペインは、オランダ制圧とフランス挟撃という宿願達成のチャンスとばかり勇みたった。
 皇帝も全面的反攻を期待した。しかしバレンシュタインは動かない。
 それどころかひそかにプロテスタント諸侯やスウェーデン、フランスなどと和平交渉を行なっていた。
 リシュリューは皇帝を裏切る代償として、バレンシュタインをベーメン王として認めることを諒解していたが、はたしてどの程度、この人物に期待していたかは不明である。
 そのバレンシュタインは当時健康をそこない、頼りとする軍隊も背を向けはじめていた。
 皇帝も彼をみかぎった。
 しかもこのとき彼は敵と交渉をつづけたり、星占いをしたりして、決断力を欠いていた。
 そして一六三四年二月、部下の陰謀は、この将軍の命をうばった。
 陰謀家たちは、皇帝から十分に報いられた点からみても、暗殺の背後にはウィーンの宮廷の動きもあったとみられよう。
 バレンシュタインについては、新旧両教徒の対立を終わらせ、ドイツに統一をもたらそうとした大人物という評価と、復讐心に富んだたんなる野心家という見解がある。
 グスタフ二世の戦死後、一六三五年、皇帝とプロテスタント諸侯とのあいだに妥協が成立した。
 しかしこの年、ついにリシュリューのフランスは公然と戦争に介入してきた。
 ここにドイツ国内の戦争から、両ハプスブルク家(オーストリアとスペイン)とブルボン家(フランス)との国際的戦争の性格がつよくなった。
 スウェーデンもなお軍をとどめており、したがって四ヵ国の軍が、スウェーデン・フランス軍優勢とはいえ、決定的勝敗がないままに、さらに十年以上も戦いつづけたのである。
 戦場となったドイツは戦乱に荒廃し、群盗や掠奪兵がいたるところに横行した。
 グリムメルスハウゼン(一六二一頃~七六)の『阿呆物語』(一六六九)は、体験をこめて、苦悩する民衆の姿をいきいきと描いている。
 戦争の悲惨といえば、「国際法の父」といわれるオランダ人グロティウス(一五八三~一六四五)が、不朽の書『戦争と平和の法』(一六二五)によって、戦争の惨禍をなくして平和を実現するために国家が守るべき法を明らかにしようとしたことも、三十年戦争と無関係ではあるまい。
 一六四一年、和平交渉のいとぐちが開けたが、その会議が北ドイツのウェストファリア地方で開かれたのは、四四年春からであった(会議の場所は、約五十キロ離れた、ミュンスターとスナブリュックの両都市)。
 皇帝および数多くの諸侯の使節、フランス、スウェーデン、スペインなどの交戦国や他のキリスト教国の代表たちが集まった。
 それは西洋史上はじめての大規模な国際会議であった。
 一六四八年十月成立したウェストファリア条約では、フランスがもっとも有利であり、エルザスの大部分、ベルダン、メッス、ツールをえて、東部国境を拡大した。
 スウェーデンも北ドイツのポンメルンなどに領土をえた。
 一方、神聖ローマ皇帝の力はますます弱まり、三百数十の領邦国家によってドイツの分裂は決定的となり、この条約は「ドイツ帝国の死亡証書」とよばれる。
 ドイツの国土は荒廃し、人口は激減、経済的発展もおくれることとなった。
 しかし領邦国家では、それぞれ常備軍や官僚機構が整えられ、小規模な絶対君主制が発達した。、
 オランダおよびスイス(実質的には十四世紀に独立達成)の独立が国際的に承認されたのも、この会議であるが、いずれもハブスブルク家の所領であったから、これはこの名家の衰退を示すものであった。
 こうしてフランスと両ハブスブルク家の多年の対決は、前者の勝利に終わったといえよう(ただしフランスとスペインの戦争は、一六五九年までつづいた)。
 なお、カルバン派をもふくめて、プロテスタントがカトリックと同じ権利をもつことも、この条約で認められた。
 また戦争に関係したプロシアも領土をえて、強国となるもといをすえ、やがてオーストリアをおびやかす存在となった。


聖ゼーノ司教殉教者   St. Zeno Ep. et Mart.  

2024-04-12 04:21:11 | 聖人伝
聖ゼーノ司教殉教者   St. Zeno Ep. et Mart.             記念日 4月 12日



 聖ゼーノはイタリアのヴェロナ市の司教で、4世紀に起こったアリオ派の異端と戦い、その害毒に滅びんとする者を救おうと努めた聖教教父達の一人である。司教になる前の事はあまり詳しく知られていないが、兎に角聖アウグスチノと同時代の人で、およそ紀元310年頃アフリカの北部に生まれ、当時大雄弁家として名声のあったカルタゴのアプレイオに師事し、修辞学その他を学んだ事がある。されば彼も弁舌文章に秀で、その説教に於いても、内容の豊富深遠なる、表現の適切巧妙なる、優に大アウグスチノに比すべきものがあると言われている。

 しかしゼーノの信仰や愛徳はその博学にも優っていた。彼がヴェロナ市の司教に挙げられたのは362年12月8日の事であったが、その頃アリオ派の異端は北イタリアにも勢いを張り、聖教信者の中にもその邪説に惑わされる者あり、又外教人等は過去三百年間歴代ローマ皇帝の迫害を蒙ってきた聖会に興味を失い、真理の光を拒む者が多かったので、ゼーノは信仰の立場からこれを憂え、愛徳の立場からはこれを憐れみ、彼等の為熱心に祈り償いの苦行を行いつつ機会ある毎に得意の雄弁をふるって人々の聖教に対する誤解を正そうと努めた。かくて或いは真の宗教の尊厳と幸福とを説き、或いはアリオ派邪説の誤謬を指摘し、専ら善導に尽くした効あって、新たに入信する者、異端より帰正する者相次ぎ、暫くにしてヴェロナ市の教会は驚くばかり盛大になったのである。この大成功を見るに至ったのはもとより彼の勝れた学徳の然らしむる所とは言え、彼の感ずべき克己犠牲の生活や、彼が天主から授かっていた悪魔を追い払う不思議な能力もあずかって力があった。

 ゼーノは異教から聖教に入ったヴェロナ市民をよく指導し、同市に大聖堂を建立し、また信者に善業を奨励した。例えばその頃ゲルマン族やゴート族がローマ帝国に侵入して、信者達を捕虜にしたり、掠奪をほしいままにしたりしたが、ゼーノ司教は自分の教区の信者に激してその捕虜を買い戻したり、貧窮に陥った人々を救う為あらゆる手段を講じたりして博愛の業を行い、為にヴェロナの教会と言えば、その慈善上の活動を以て全イタリアのキリスト教会に誰知らぬ者もないほどになったのであった。ゼーノは更に信者達の信仰を深め、信心を盛んならしめる為に、西洋最初の女子修道院を設けた。それまでは童貞の誓願を立てた少女も、やはり我が家にあって、唯出来るだけ世間的な交際を避けて生活するに過ぎなかったが、彼はかような人々を世間の危険よりも救い、同志共に徳に進む事が出来るよう、ことに協同生活の途を開いてやったのである。そしてその蔭には童貞聖マリアに対する彼の厚い敬愛の心も秘められていた。事実彼は異端者の妄説に対し、聖母の終生童貞を堅く主張し「ああ偉大なる玄義かな、マリアは露穢れもない童貞の御身で懐胎され、つゆ穢れもない童貞の御身で御子を儲け給い、御出産後もつゆ穢れない童貞の御身であらせられたのである。」と言った事もある。以て彼が聖母崇敬の至誠の一端を伺う事ができよう。

 ゼーノの最期に就いては歴史に詳しく伝えられていない。しかし聖教の為尽くした功労の故に、教敵アリオ異端教徒の憎悪を受け、かのヴェロナ市にほど近いブリクセン市に同じ頃司教たりしフィラストリオが彼等に斬殺された如く、ゼーノも殉教の血を流して真理を証したと信ぜられている。そしてその帰天は西暦371年キリスト御復活の大祝日頃であったとの事である。

教訓

 我等も聖ゼーノ司教に倣い、天賦の才能をよく用いて、自分及び他人の救霊に働き、常々その為には