カトリック情報 Catholics in Japan

スマホからアクセスの方は、画面やや下までスクロールし、「カテゴリ」からコンテンツを読んで下さい。目次として機能します。

9-2-6 サロンの客

2024-04-16 17:54:01 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
2 ブルボン王朝余話、フランスの大政治家リシュリュー
6 サロンの客

 このフロンドの乱に関係した貴族のひとりに、ラ・ロシュフコー(一六一三~八〇)という人物があった。
 彼の家柄は父がフランソワ五世と袮するような、大貴族中の大貴族である。
 彼はこの父の死(一六五〇)まで、マルシャック公とよばれた。少年期のことはよくわからないが、公爵家の領地ベルツイユの城館でのびのびした、しかし孤独な日々をおくったらしい。
 まだ十四歳半くらいで、やはり名門の貴族の娘と結婚、八人の子供ができたが、この夫人についてはほとんど不明である。
 一方、彼は一六二八年から三六年ごろ、軍務に服するとともにルイ十三世の宮廷につかえている。
 この宮廷では、シュブリュース公妃らの反リシュリュー陰謀に加担して失敗し、三七年にはごくわずかな日数だがバスティーユへ投獄され、またベルツイユに追放された。
 その後、彼は軍務および宮廷に復帰し、リシュリューの死後は、新しい宰相マザランに対する陰謀に関係した。
 そして彼は、同じく反マザラン派のロングビル公妃(一六一九~七九)に対する恋情のとりことなり、あのフロンドの乱に身を投じたのである。
 「女というよりは天使とよぶにふさわしい。」「フランス中でもっとも愛らしい女性」と、あの辛辣なレス枢機卿を感嘆させたロングビル公妃に、ラ・ロシュフコーは、「生命をもささげてかえりみない情熱」を睹しつつ、フロンドの乱に参加した。
 そして一六五二年七月、彼はあのパリ近郊の戦闘で顔面に負傷し、あやうく両眼を失明するところであった。
 これをまぬがれたのち、公爵はつぎのような意味の詩句をもって、忘れえぬ女性の面影をしのんだという。
 「王との戦を辞せず、両の眼を失おうとした私。でもこんなに愛しい人のためならば、私は神にも挑むでしょう。」
 フロンドの乱も終わり、一六五三年に四十歳となったラ・ロシュフコーは故郷で敗残の生活を、この乱を中心とする『回想録』(一六六二)の執筆におくることとなった。

 やがてルイ十四世から年金や勲章をうけているので、王の不興はしだいにとけていったものとみえる。
 しかし彼はパリに帰ってからも、もっぱら社交界の人となり、公的な場からは身をひいた。
 また五十歳をこえたころ痛風にかかり、以後この持病に苦しむこととなった。
 彼がサロンの客となったとき、すでにランブーイエ邸の時代はすぎていた。
 ランブーイエ邸とは、フランスで最初の有名なサロンである。

 フランスにおけるサロンは一六一○年代にはじまる。
 十六世紀後半、宗教内乱時代のフランスでは戦乱に明け暮れるうちに、格式は失われ、礼儀作法もすたれていった。
 アンリ四世時代には、人びとは「水車小屋にはいるように」ルーブル宮に出入りできたし、ルイ十三世は食卓で何か気にいらないことがあると、かたわらの貴婦人に酒をはきかけたりした。
 またアンリ四世やリシュリューの禁止にもかかわらず、決闘もしばしば行なわれた。
 こうして粗暴で武骨な風習にあきたらず、礼節、洗練をもとめた人びとのなかに、ランブーイエ候妃カトリーヌ・ド・ビボンヌ(一五八八~一六六五)という女性があった。
 彼女は外交官の娘で、ローマにうまれ育ち、その開化された雰囲気をパリにもちこみたいと思った。そこで彼女は一六一〇年ごろから自分の邸宅を、礼儀正しく、洗練された社交場として提供することにした。
 ここではランブーイエ夫人と娘ジュリー(一六○七~七一)を中心として、社交一般からはじまり、知的な会話、思想の交換、自作の文芸作品の朗読やそれに対する批評などが展開された。
 元来サロンとは客間を意味する言葉にすぎないが、こうして特別の社交場を示すこととなった。
 そしてランブーイエ邸の盛時は、一六三〇年から四五年ごろまでつづいた。

 ここに出入りした人びとのなかには、劇作家コルネイユ、大説教家ボシュエ、フロンドの乱で有名なコンデやロングビル公妃、書翰文学のセビニエ夫人、心理小説の傑作『クレーブの奥方』の作者ラ・ファイエット夫人などの姿が見うけられた。
 そしてラ・ロシュフコーもまた、若いころこのランブーイエ邸の客人であった。
 それが衰えてからも、ニノン・ド・ランクロ、スキューデリ嬢、サブレ夫人、セビニエ夫人など、主として女性を中心とした貴族的、ブルジョワ的サロンのかずかずが、ルイ十四世時代におよんでも、パリをにぎわした。


イランがホルムズ海峡を閉鎖したら

2024-04-16 09:04:39 | 時事

 イランがホルムズ海峡を閉鎖した場合、日本への石油の70%、天然ガスの20%が途絶えるようです。

 日本のイランへの依存率は僅かですが、サウジアラビア、カタール、イラク、クウェート、UAEへのタンカーがホルムズ海峡を経由するからです。

イラン、ホルムズ海峡の封鎖可能=革命防衛隊幹部  2024年4月10日午前 5:23 GMT+96日前更新

[ドバイ 9日 ロイター]
- イラン革命防衛隊の海軍司令官は9日、アラブ首長国連邦(UAE)におけるイスラエルの存在をイランは脅威と見なしていると述べた。必要と判断すれば、原油輸送の要衝であるホルムズ海峡を封鎖することもあり得るとした。

 シリアの首都ダマスカスにあるイラン大使館周辺が今月1日に受けた攻撃で革命防衛隊幹部を含む7人が死亡。イランのライシ大統領はイスラエルに報復すると表明している。

 政府系のイラン学生通信(ISNA)によると、革命防衛隊の海軍司令官は「われわれは攻撃に反撃するが、報復は急いではいない」とし、「ホルムズ海峡を封鎖することは可能だ。現在は封鎖していないが、敵がわれわれを阻害しようとすれば方針を見直す」と語った。




聖ベルナデッタおとめ     St. Bernadetta Virg. 

2024-04-16 02:40:45 | 聖人伝
聖ベルナデッタおとめ     St. Bernadetta Virg.           記念日 4月 16日



 フランスのルルドは、1851年2月21日天主の御母が14歳の一少女に現れ給うた所として、全世界に有名であるが、その御出現に就いては既にその祝日なう2月11日のくだりに記した。本日は右の少女ベルナデッタの記念日であるから、簡単ながらその生涯を物語る事にしよう。我等はそこに又、心素直にして謙遜篤信な者を選び、大事を行い給う天主の御摂理の程を伺う事が出来る。

 彼女は1844年前記のルルドに生まれた。幼い時は健康な子であったが、7歳頃から病身になり、その二、三年後には一度大病を患い、死ぬまで喘息の病から逃れる事が出来なかった。その上彼女の一家は大いなる試練も来た。それは予期せざる不幸から赤貧の中に沈み、住み慣れた家も去ってみすぼらしい小屋同然の住まいに移らねばならなくなったことである。そしてその後はベルナデッタの身体の具合も益々悪くなるばかりであった。

 しかし彼女の精神の悩みは肉体の苦しみ以上であった。父母兄弟を深く愛している彼女は、一番年長の子でありながら病気で家事の手伝いも出来ぬ事を、言いようもないほど心苦しく感じていたのである。彼女がようよう出来るのは、母が生活費の助けにもと外へ稼ぎに行った留守に、小さい弟妹の守をする事くらいであった。けれども彼女の一家は貧窮の内にも怨まず嘆かず唯黙々とその不自由を耐え忍んだ。この感ずべき態度は、堅固な信仰と天主への厚い信頼の証拠でなくて何であろう。
 ベルナデッタは13の歳を迎えても学校に行かず、従って読み書きも出来なかった。生きたい心は山々であったが当時彼女は羊の番する仕事をせねばならなかったので、通学の暇がなかったのである。が、その代わり彼女は広々とした静かな野原で多くの祈りをした。又編み物や縫い物や繕い物などをもした。そして夕方になると我が家に帰るか知り合いの家を訪ねる。人と話したり人の話を聞いたりしている間に時々新しい知識を得る事がある。14歳になると彼女はやっと憧れの学校に行くことが出来るようになった。ところがちょうどその頃あの聖母御出現という一大事件が勃発したのである。この聖なる姫君の御現れは勿論ベルナデッタに多大な慰めと豊かな聖寵とを与えた。しかしそれは他方には又幾多の悲しみと試練の因ともならずにはいなかったのである。

 聖マリアの御出現も彼女にとっては一種の学校 最良の霊魂の学校であった。彼女の魂は清らかで罪の穢れもなかったが、この学校で聖母の御許で、しっかりと信仰の徳との根底を据えられた。彼女が聖母からお聞きして伝えた言葉を、人々が信ずるに至ったのは、主に彼女のこの信仰と徳との力に依ったのである。
 御出現は終わったが、それに就いての厳しい調査はその後も長い間続けられた。ベルナデッタはいつも自分の知っているところを正直に申し立てた。かくて遂に御出現の場所は霊場となり、緒所方々から夥しい巡礼者が日毎に殺到するようになった。これらの人々は人情の常として稀有の恵みを蒙ったベルナデッタに好奇心を抱き、一目でもその顔を見たいと望む、謙遜な彼女にはこれが耐えられない苦痛なのであった。
 他の人であったら自分がこれほど評判になれば、得意になって増長傲慢の罪に陥ったかも知れぬ。しかしベルナデッタは依然素直な、貧しい、謙虚な少女であった。彼女は、前の通り家の仕事や羊の番を続けた。その両親もベルナデッタのようにしばしば尊敬者から金品を与えられる事があったが、好意を謝しつつ何一つ受け取らなかったから、やはり貧困の境涯を脱する訳には行かなかった。彼等は聖母の御恵みに依ってこの世の財産を儲けたなどと人に言われたくなかったのである。


 ベルナデッタはその内に切なる望みを抱くようになった。それは人に煩わせぬ修道院に隠れて、心静かに天主に仕えたいという事であった。間もなくある修道院の分院に雑仕婦の職を得た彼女は、よほどそのままそこに留まろうかとさえ思った。が、天主はおもむろに彼女のため、ヌヴェールにある博愛教育姉妹会に入会の途を開いて下さったのである。
 既にその入会を決意したベルナデッタにとって唯一つ辛いのは、懐かしの姫君を仰ぎ奉ったルルドの洞窟に別れを告げる事であった。けれども彼女はその忍び難い思いをも犠牲にして敢然ヌヴェールに出発した。それは1866年の7月4日の事であった。
 かくて修院に着いて両3日後、彼女は総ての童貞達の前で聖母御出現の顛末を述べよとの命令を受けた。彼女は従順に、謙遜かつ正直に語り、人々に多大の感動を与えたが、それからは再びその話をする事を厳禁された。彼女は却ってそれを喜んだ。彼女はこれまでに重大な理由がなければその事を口にせず、唯心に繰り返し御母の恵みを味わうのを好んだからである。
 まだ修練期の間にベルナデッタは大病に罹った。皆は最早彼女が助からぬものと思った。で、彼女は早急に誓願を立てる事を許され、歓喜に溢れてその式を受けたが、病気は一同の予期を裏切って再び軽快した。為に、一度誓願は立てたものの、彼女は聖会の規定に従って他の修道女の如く、まず修練期を完了ししかる後に誓願を立て直さねばならなかった。
 ベルナデッタが病気の折りに示す態度は、実に忍耐の模範であった。彼女は静かな修道院に一生を過ごし、かつ病身であったから、世人の目を驚かすような大事業は出来なかったが、それでも毎日の隠れた犠牲や、従順、克己、謙遜、忍耐、隣人愛などの諸徳の業に至っては数え尽くせぬ程である。これは天主の御目には一つ一つの燦爛たる宝石の如くに映じ、その積もり積もった功徳はどれほど広大であるか測り知れない。

 さてベルナデッタはそれからも幾度となく病床に臥し、遂に再起不能となって1879年4月16日、ルルドで聖母を仰ぎ見てから21年目に帰天した。
 ルルドに起こる数々の奇跡は、聖マリアの御出現が荒唐無稽に非ざる事を証拠立てるものであるが、ベルナデッタ終焉の地であるヌヴェールに於いても彼女の祈りにより、その生前の聖なる事実を証し給うたのである。
 この謙遜な、心貧しい童貞の徳は葬式の時から既にかくかくたる栄誉を得たが、聖女の位に挙げられてからは一層その燦然たる光輝を放つに至った。かくて自らを卑うした彼女は今や全世界の尊崇を蒙るに至ったのである。

教訓

 天主の聖母を尊敬せねばならぬ。聖マリアはあらゆる聖寵を天主より受けて我等に分かち与え給う方である。その与え給う場所は何もルルドのみに限らぬ。へりくだって衷心から願いさえすれば、世界の至る所に恵みの雨を降らせ給うのである。