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9-3-9  デ・ウィットの苦悩

2024-05-10 18:43:19 | 世界史

『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
3 イギリスのピューリタン革命
9 デ・ウィットの苦悩

 さて前述のように、一六四八年ウェストファリア条約で、オランダの独立も国際的に承認され、平和も回復された。
 しかし、ときの総督、オランイェ家のウィレム二世(在職一六四七~五〇)は、さらにスペインとの戦いをつづけようとしたが、これは、南のスペイン領ネーデルラントを支配しなければ、オランダは安全でないと考えたためである。
 これに反対したのは、商業上の利益を第一とし、平和を欲するアムステルダムをはじめとする、ホラント州の諸都市であった。
 そこでウィレム二世は一六五〇年、ホラント州の指導者六名を逮捕し、アムステルダムを夜間に急襲しようとした。
 アムステルダムに至る街道には、途中、何本かの道が交差した地点があり、迷いやすかったので、交差点近くの外科医の家の窓に、道しるべの燈をつけることにしておいた。
 ところがその外科医がうっかりして、十一時に燈を消してしまったため、軍隊が道に迷って機を逸した。
 一方、アムステルダムは軍隊の接近を察知して市の門を閉じ、周囲の土地に水を氾濫させて防衛態勢をとった。
 このためウィレム二世の急襲は失敗におわり、その数ヵ月後、彼が急死し、中央集権の夢はついえさった。
 彼の死後一週間目に、のちのウィレム三世(在職一六七二~一七〇二)が生まれたが、政治的空白ができ、これがホラント州の貿易商人進出の絶好の機会となった。
 彼らは州主権を主張して、分権的共和制の実現を期した。
 これを指導したのが、ヤン・デ・ウィット(一六二五~七二)で、事実上一六五三年以後ホラント州の宰相というべき地位にあった。
 そしてこのころ、オランダは、ピューリタン革命中のイギリスと交戦状態にはいったのである。
 オランダは独立戦争のときには、イギリスの援助をうけてスペインと戦った。
 しかしスペインの勢力が衰えてくると、オランダとイギリスは貿易、植民地支配の主導権を争う二大海上国家として対立するにいたった。
 この争いの過程で、一六五一年十月、イギリス議会は航海法を制定した。
 これは、イギリスやその植民地に輸入される品物の輸送を、イギリスや産出国などの船舶に限ることによって、オランダの仲継ぎ貿易に打撃分あたえることを目的としていた。
 ふつう航海法はクロンウェルの名とむすびつけられているが、彼はむしろその制定に反対であり、イギリス貿易商人たちの発想にもとづいたものである。
 これによって両国の関係はますます悪化し、一六五二年、第一次イギリス・オランダ戦争(一六五二~五四)となった。
 イギリス海軍優勢のうちに、この戦いは終わったが、その後、王政復古時代に第二次(一六六五~六七)および第三次(一六七二~七四)のイギリス・オランダ戦争が行なわれている。
 この第一次、第二次の戦いにおいて、その指導に、講和に、中心となったのはデ・ウィッ卜である。
 彼に登用されたデ・コイテル(一六〇七~七六)が一六六七年、オランダ艦隊をひきいてテムズ川にはいり、イギリス側に損害をあたえ、ロンドン市民のドギモを抜いたことは有名である。
 第三次の戦いも、デ・ウィットがこれに当たらねばならなかった。
 しかもこのときは陸においても、ルイ十四世のフランス軍の侵入をうけていたのである。
 国家存亡の危機にあたり、ふたたびオランイェ家をいただいて難局にあたろうという、国民感情が強くなった。
 一方、国難を招いた責任者として、デ・ウィットに対する非難が高まり、一六七二年八月、彼は職を辞した。
 同月二十日、彼は暴徒によって虐殺される。
 ブルジョワ共和主義者で、教養人、寛容で無私、ひたすら国事につくしたこの政治家は、海にイギリス、陸にフランスによって挟撃される小国オランダの苦悩を、一身に背負うように倒れたのである。
 一方、総督となったウィレム三世は、堤防を破壊して洪水戦術をとるという背水の陣をしいて、フランス軍に対抗した。
 またデ・ロイデルが指揮するオランダ艦隊は、イギリス海軍の侵入を防いだ。
 やがてフランスの強大化を恐れる諸国の動向によって、国際状勢も変わり、オランダは一六七四年イギリスと、七八年フランスと講和する。
 イギリスとの和平後まもなく、ウィレムはのちのイギリス王ジェームズ二世(一六八五年即位)の長女メアリーと結婚した。
 この関係でウィレムは妻とともに一六八八年、名誉革命のとき、イギリス王に迎えられた。
 彼はその後も国際政局の中心として、とくにフランスの侵略戦争に対抗する。
 しかしオランダ自体の国力は、たびたびの戦争をへて、十八世紀には急速に衰退に向かっていった。




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