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9-4-2 ドーバーの密約

2024-05-12 03:02:02 | 世界史


『絶対主義の盛衰 世界の歴史9』社会思想社、1974年
4 イギリスの王政復古から名誉革命へ
2 ドーバーの密約

 一六六〇年、チャールズ二世はクロンウェルの航海法を更新、拡充した。
 当時はロンドンの実業界ばかりでなく、宮廷も貿易には熱心で、親王、大臣や上流社会のめんめんが貿易会社に出資した。たとえば王の弟で、海軍総司令官であったヨーク公ジェームズ(一六三三~一七〇一)が、王立アフリカ会社の初代総裁となり、東インド会社の株を買っている。
 一六六四年、イギリスはアフリカ西岸のオランダの根拠地を占領し、アメリカ大陸でもニュー・ネーデルラントをとって、ニュー・アムステルダムをニュー・ヨークと改めた。

戦争とペストに痛みつけられて、さらにロンドンに大火事が起った

 そして、第二次イギリス・オランダ戦争(一六六五~一六六七)がおこったのである。
 ところが戦争の最中、一六六五年の春から六六年末にかけて、猛烈なペストがイギリスをおそった。
 西アジア方面からオランダをへてきたものである。
 ロンドンが中心で、ひどいときには死亡者が、一週間に七千名におよぼうとするありさま。
 人口五十万のうち、七万が死んだという。
 宮廷はハンプトン・コートからソールズベリーに避難し、少なからぬ聖職者が信者たちを見すてて逃げだした。
 このときピューリタンの牧師が生命の危険をおかして、そのあとをうめたが、だれも法律違反であるとして訴えうるものはなかった。
 悪いことはつづくものだ。ペストがおとろえだしたころ、大衆にとって、「神の怒り」の証拠とも見られる不幸がおこった。
 一六六六年九月の第一週、東風のもとでロンドンに火事がおこり、四日間で一万三千戸を焼いたのである。
 この大火によって、イギリスの戦時財政は極度に悪化した。
 一六六七年六月、オランダの艦隊がテムズ川河口に攻めこみ、ケント州のチャタム港をおそって四隻を焼き払い、旗艦を曳き去り、イギリスはブレダの和を講ずることをよぎなくされた。
 このように戦争指導がうまぐゆかなかったことから、クラレンドンは議会の攻撃をうけ、ペストや大火まで彼のせいにされ、一六六七年八月辞職した。
 そのあとはクラレンドンのような一人の大臣ではなく、一団の大臣が王をたすけて政治を指導することになった。
 この一団は彼らの頭文字をとって「キャバル」とよばれ、一種の内閣であった。
 しかし連帯責任ではなく、大臣が個々別々に王と交渉をもち、王からの信頼度もさまざまであった。
 王は「キャバル」を利用して、外交の二面政策を実行した。
 一方ではフランスのルイ十四世に対抗するため、一六六八年オランダ、スウェーデンと三国同盟をむすぶとともに、他方では一六七〇年ルイ十四世と「ドーバーの密約」をむすんだ。
 これは正規の外交ルートをとおさず、王の極秘の個人的交渉にもとづき、「キャバル」のなかでも知っていたのは、カトリック教徒の連中だけであった。
 この条約によって、イギリス王はルイ十四世の対オランダ戦争(一六七二~七八)に参加するとともに、カトリシズムの真理を確信するむねを宣言し、イギリスの事態がゆるせば、カトリシズムに改宗することになり、フランス王はこれに対して友情をあらわすため、金を支払い、必要がある場合は、軍隊を派遣することを約束した。
 チャールズはルイ十四世との密約にしたがって、国内ではカトリシズムを復活させるため、宗教上の寛容というかくれみのを利用した。
 すなわち王は一六七二年、寛容宣言を発したが、議会は王の真意を見抜いて、七三年これを撤回させた。
 そして「審査法」を制定し
 「文武の官職をもつものは、いかなるものも国王至上権をみとめ、国王に対する忠誠を誓わなければならない。
 上記の官職にあるものは、イギリス国教会の慣例にしたがって、聖餐(せいさん)の聖礼典をうけなければならない」
 とし、カトリック教徒を官職からしめだした。




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