伊勢ー白山 道

集団では無く、社会の中で心身の健康を正しく個人で目指します

彼岸=正しい、お任せに至る事

2010-09-19 11:46:20 | Weblog

明日から一週間ほどは、秋のお彼岸(ひがん)期間に入ります。要は、太陽軌道の節目の期間です。
昼と夜の長さがほぼ同じとなる秋分の日(今年は9月23日)を挟んだ、前後の三日間を合わせた、約七日間が仏教で言う彼岸です。だから仏教も、太陽を意識した宗教です。
では、昼と夜が同じならば、霊的には何が言えるのか?
新たな目標を持ったり、何かよろしく無い事を止める決意を、彼岸期間に始めたり、秋分の日に強く決意するのは良い事です。小さな節目にする期間です。
特に秋分は、春分とは違い、昼間が短く成る方向に進みますから、「止める決意」が有効するとは言えます。
太陽から、波動の後押しと援助を受けることに成ります。

人間は生きる限り、小さな決意が生活の中で必要です。
精神世界で言う「あるがままに」は、「グータラでも良い」では無いのです。
自分が出来る最善を尽くした上で、あとは「お任せ」で生きることです
そして、現れる結果には、執着(こだわり)しない生き方です。霊的には、結果は消えて行くので価値が無いからです。
「過程」こそが最重要なのです。
悩んだか?迷ったか?自分が出来る努力をしたか?しようとしたか?・・・
そして、最後に自分の良心に従って行動をしたかが重要なのです。
だから、迷えば良いのです。改善を決意して、それも破り、また決意をし直す事です。
このモガク過程にこそ、霊的な意味と価値が在るのです。あの世に持参する磁気として残っています。

生きている短い間は、小さな改善をする決意と、反省(自分を静観すること)が必要です。
精神世界には、あの世の「時間が止まった次元の習慣」を垣間見て、勘違いをして現実界で断片だけを誤って広めているものが多いのです。瞑想などは、まさにそうです。
釈尊は、瞑想などしていません。くつろいで休んでいただけです。
傍から見ていた人間が、それを「修行」だと大きな勘違いをしたのが始まりにすぎません。(釈尊の死後、数百年後に構成された経典には、真相は無いです)
瞑想で光を見たウンヌンの人間は、真の瞑想をしていません。それは魔界に落ちただけのことです。
瞑想とは、感謝しながら「今」に懸命に生きることです。禅の作務(さむ)こそが、瞑想の本意です。いつのまにか座る事が本意にされてしまいました。

この時間が有限な現実界では、大いに悩み、モガキ、いろんな体験をし、そして「生かされている」ことに気付き、すべてに感謝が出来れば、それで十分なのです。きれいに卒業できます。

生かして頂いて ありがとう御座位ます


人類の 5% 運動を広めたいです。
    

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読者の考察 「リーマン革命」 
 
http://blog.goo.ne.jp/isehakusandou/d/20090317

>釈尊は、断食と瞑想を死ぬ寸前のギリギリまでトコトン遣り抜きました。しかし、最後まで心にある宇宙と一体と成る感覚を得られませんでした。釈尊でも瞑想修行では駄目だったのです。

これから考えるに、恐らく瞑想によって、心を平静にしていくことで「心にある宇宙の残影のようなもの」を垣間見ることは、(運が良ければ)有るのだと思います。その意味でUnknownさんが、お考えのように、瞑想は、「自己探究によって模索される中発生した」手法、試行錯誤の一つと言えるかも知れません。しかし「座って」、心にある宇宙を<見よう>とすることが、実は「自我」のワナで、瞑想によって、自己探求のほんとうの最終目的である「心にある宇宙そのものと一体」になることは、原理的に不可能なのだと、リーマンさんは、仰りたいのだと思います。「。。。瞑想は過去生で卒業しています。」というのも、体験的にそれを確かめたということでしょう。この意味で、瞑想は「今はダメになった」のじゃなく、「もともとダメ」なわけです。要するに、瞑想というのは、「途中までは」行けるけど、原理的に、袋小路、行き止まり。絶対に目的地には辿り着かない。だけどみんなこの自我のワナにハマってしまう。何というか、瞑想修行者は、みんな富士山(さとり)登ってると思い込んでるけど、全然違う別の山登ってると。この認識が、瞑想を考える上での第一点目です。言うなれば、<いのちの真実>は見つめても分らない。<いのちの真実>を実際に生きない限りは…といったところでしょうか。

参考:この辺りの原理を道元は、以下のように、端的に書き残しています。
「自己をはこびて萬法を修証するを迷いとす、萬法すすみて自己を修証するはさとりなり」
「生死(しょうじ)の中に仏あれば生死なし、但(ただ)生死すなわち涅槃と心得て、 生死として厭(いと)うべきもなく、涅槃として欣(ねご)うべきもなし、 是(この)時初めて生死を離るる分(ぶん)あり」
簡単に言うと、「いのち・さとりを<求め>歩いてもダメです。自分の中から<勝手に>いのち・さとりが流れ出すようにしないと。」「没入せよ」みたいな意味です

さらに瞑想が抱えている「現代的」な問題点は、瞑想しようとするここ数千年の「現代的な」修行者が、自分に関わる先祖などの残存磁気に絡めとられて、いくら瞑想で、自分の心にある宇宙を見つめようとしても、その干渉が邪魔になって、ちゃんと見つめることすら出来ていないということだと思います。ヘタすると、それらの磁気干渉によって見える幻影を「さとり」と勘違いして、余計に本当の「さとり」の道から遠のくと。また瞑想は、自我を解放するというか、自分の心を無防備に外側に向かって開け放つという問題も孕んでいます。ここに自分の霊体にスキが出来て、ひとの霊性修行にチャチャ入れて面白がる「魔界」の連中の干渉や憑依を許してしまうという問題が起こって来るんだと思います。ヘタすると有料先生になって、その害悪を周囲にまき散らして、霊的侵略・汚染の「道具」に使われてしまうと。
要するに、ほとんどの「現代的な」瞑想修行者は、瞑想という原理的に限界のある手法でさえ、中途半端にしかやれていないと。つまり瞑想の道は、挫折者の死屍累々で、非常に凄惨なことになってるわけです。これが二番目の認識すべき点です。

で、リーマンさんがやろうとしてるのは、まず第二点目の問題について、三本の線香供養で、求道者に関係する干渉磁気の負荷を減らして、自己を見つめやすい環境を整えると。さらに、理論上は、その上で、道元の主唱した「作務」や、グルジェフの云う「労働」、つまり、意識を明晰に保ちながら、毎瞬毎瞬、自己を見つめて<この世を生きる>というのが、本当の覚醒への道ですが、これはこれで、なかなか難儀な道です。そこで、これを万人に実践出来る形にしたのが、日々の生活で「生かして頂いて ありがとう御座位ます」の精神と言霊の作用を使って、全ての瞬間を感謝の意識で、<体験し尽くす>というリーマンさんの「感謝想起」なのだと思います。まぁ、ある意味、霊性史におけるリーマン革命といったところでしょうか。

コメント (544)
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