建て直そう日本・女性塾

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女性塾第一回研修会報告

2006年03月31日 18時47分01秒 | 研修会報告
建て直そう日本・女性塾
第一回研修会  平成18年1月28日(土)
   於:靖国会館
テーマ「憲法について」
講師  伊藤哲夫先生  日本政策研究センター所長

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皆様こんにちは。本日は皆様のお手元にある資料を使いながら、憲法についてお話したいと思います。
 昨年の11月には自由民主党が初めて党としての改憲草案を発表しましたが、私はがっかりしました。前文改正案には「日本国民は自らの意思と決意に基づき、主権者として、ここに新しい憲法を制定する。象徴天皇制は、これを維持する。」と書いてあります。味も素っ気もない文章、特に「象徴天皇制は、これを維持する」はどうでしょう。「象徴天皇制」というのは戦後アメリカ軍が憲法に書き込んだ言葉です。しかし日本は長い歴史・伝統を継承して今日があるのであり、そこで培われた国民性は日本が世界に主張できる最大の資産であり、その最大の資産を中心になってしっかり統合されておられるのが天皇陛下なのです。「象徴天皇制はこれを維持する」では歴史的視点を欠いております。
 そもそも、天皇(そのもの)について何の説明もありません。天皇とは特別の存在であり、その特別たらしめているものについての説明が必要です。天皇のはじまりは神話の時代。しかも日本は神武天皇の世界から今日まで、言葉も信仰も文化も全部つながっています。とりわけ神道の祭祀は今日まで伝わり、宮中では今も天皇陛下がその祀りを行っておられます。それを日本国民はとても有難いことだと思っています。このように現代世界の中で神話が生きているのは日本だけなのです。
 それと同時にこの125代すべてが男系というもので繋がってきた。これは簡単に行えることではなく、今日の日本が直面しているような局面は沢山ありました。そのつど皆で工夫し、傍系から継承者をお連れして即位していただくということもやりながら今日にきています。
 第二条には「世襲」という言葉が出てきます。「皇位は世襲である」これを戦後の学者は“特定のものだけが世襲するのは、民主主義の考え方と違う”などと言ってきました。しかしそうではない。この「世襲」という言葉はただ単に血を繋げばいいのだというのではなく、男系の血を繋げなければならないのです。男系男子の家系は辿っていくと神武天皇に繋がっていきます。また科学的には遺伝子のY染色体は男系でしか繋がりません。
 次に憲法の成立過程です。
 アメリカが日本を占領したときの基本マニュアルにはこう書いてあります。占領の究極の目的は「日本国ガ再ビ米国ノ脅威トナリ又ハ世界平和及安全ノ脅威トナラザランコトヲ確実ニスルコト」、要するに日本の牙を抜くということです。まず考えたのが(物理的)武装解除。次に精神的武装解除。日本人の戦う精神、自国に対する誇り、自尊心、こうした精神を失くす。彼らが最も力を入れたのが、日本人の思想統制です。
 最初にやったのがマスコミの統制です。昭和20年の9月に入ってから、日本のマスコミの責任者がGHQに召集をかけられました。ドナルド・フーヴァー大佐が、マスコミ関係者に対し、アメリカ軍による強姦事件の新聞記事、こういうものは今後一切載せてはいけないと発表しました。
「日本は文明諸国家間に位置を占める権利を容認されてゐない、敗北せる敵である。諸君が国民に提供して来た着色されたニュースの調子は恰も最高司令官が日本政府と交渉してゐるやうな印象を与へている。交渉といふものは存在しない。(中略)最高司令官は日本政府に対して命令する。(中略)偽のニュースとか人を誤らせる様な報道は今後一切許さない。また聯合国に対する破壊的な批判も許さない。日本政府はこの方針を立証するやうな手段を直ちに実行すべきである。もしそれが行なはれなければ最高司令部がこれを行ふであらう」(米軍宣伝対策局民間検閲主任:ドナルド・フーヴァー大佐声明文 昭和20年9月15日)
 朝日新聞は9月15日にこの声明文を突きつけられ、9月18日に占領軍により48時間出版停止を命じられました。9月22日になって朝日新聞は実質、転向声明というべき社説を掲載しました。それまで朝日新聞は「戦ひはすんだ。しかし民族のたたかひは寧ろこれからだ。~国民は敗戦といふきびしい現実を直視しよう。しかし正当に主張すべきは、おめず臆せず堂々と主張しよう。単なる卑屈は民族の力を去勢する」(「朝日新聞」9月6日号)と言っていました。しかし9月22日には「今や我軍閥の非違、天日を蔽うに足らず、更に軍閥の強権を利用して行政を壟断したる者、軍閥を援助し、これを協力して私利を追求したる者などの罪過も、ともに国民の名において糺弾しなければならぬ。~軍国主義の絶滅は、同時に民主主義の途である。~」となりました。一週間の間に社説が180度変わってしまったのです。今日の朝日新聞の出発点といえましょう。
 占領軍は次に、日本の正当性や日本の歴史の素晴しさを語るものを全マスコミから放逐し、変わりに太平洋戦争という名称で、日本が侵略戦争をしたという刷り込みをマスコミを使って始めました。
 こうやって占領軍が戦争について日本に情報を提供して有罪意識を刷り込むことを「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」といいます。その最大の舞台仕掛けとされたのが東京裁判です。
 ご存知のように、日本は独自の憲法を作ろうということで、当時の日本の代表する最高の学者を集めて、その結果作られたのが松本案という憲法案です。中学校や高等学校の公民の教科書には“占領軍に日本の憲法は押し付けられたものだったが、そのお蔭で日本は民主主義の方向に導かれた”というGHQ美談が書かれています。これは占領軍が国へ帰ってから出した「日本の政治的再編成」という報告書が基になっています。その報告書が後に翻訳されて初めて、あの憲法は押し付け憲法だったことが分かりました。しかし、その時には既にGHQ美談が日本人の頭に刷り込まれていました。
 昭和21年2月13日、民生局案を押し付けられた時の松本国務大臣の証言「ホイットニーは先方の案をタイプしたものを数部机の上に出し~こういうことを言った。『日本政府から提示された憲法改正案は司令部にとって承認すべからざるものである。~マッカーサー元帥はかねてから天皇の保持について深甚の考慮をめぐらしつつあったのであるが、日本国政府がこの自分の出した対策のような憲法改正を提示することは、右の目的を達成するために必要である。これがなければ天皇の身体の保障をすることはできない。~』」これは、占領軍は日本側が提出した松本案を読みもせず“私達が作ったものを基に憲法を作りなさい、私達は押し付けはしない、しかしこれを受け取らなければ天皇の身体を保障できない”と言っているということです。
 松本烝治大臣は、まだ話せば分かる、松本案は決して非民主主義的な案ではない、見るところあの連中は憲法の専門家ではないようだ、として長い説明書の起草に取り掛かった。そして2月18日、それが完成すると白洲次郎に託してホイットニー准将に届けさせた。渡された占領軍は激怒し、“我々が訊いているのはこの憲法案を受けるか受けないかだ”と言う。この剣幕に日本政府は諦めざるを得なかった。
 日本語に翻訳する段になり、松本大臣は日本国憲法の前文を読んだ。しかしこれは夢物語で前文には成り得ないから、日本政府としては前文抜きで第一条から始まるものにさせてほしい、と占領軍に言った。ここで占領軍と松本大臣の間で大喧嘩になったのです。
 次は「天皇の国事行為に対する内閣の助言と承認」という件で、松本大臣は「天皇に対して臣下の大臣が承認するなんてとんでもない。明治憲法に『輔弼』という言葉がある。それでいいではないか」と主張する。しかし占領軍は「いや駄目だ、承認という言葉をいれるのだ」と言う。それでも松本大臣は「あなた達は日本語まで変えにきたのか!」と机を叩きながら主張する。挙句の果てに松本大臣は、どうしようもないからこの場は帰ると言い、法制局の役人だけ残して去ってしまったのです。
 しかしそこで占領軍はドアに鍵をし、明日の朝まで缶詰になってもらう、結論を出すのだと命令を出します。残された法制局の役人(佐藤、白洲、長谷川、小畑)は缶詰になって最後の詰を行った。その結果作られたのが、日本国憲法なのです。
佐藤達夫・法制局部長の手記(3月5日)には「無準備ノ儘、微力事ニ当リ、然モ極端ナル時間ノ制限アリテ、詳細ニ先方ノ意向ヲ訊(ただ)シ論議ヲ尽ス余裕ナカリシコト、寔(まこと)ニ遺憾ニ堪ヘズ。已ムヲ得ザル事情ニ因ルモノトハ云ヘ、此ノ重大責務ヲ満足ニ果シ得ザリシノ罪、顧ミテ慄然タルモノアリ。深ク項(うなじ)ヲ垂レテ官邸ニ入ル」とあります。
 このとき通訳した白洲次郎さんの手記(3月5日)では「斯クノ如クシテコノ敗戦最露出ノ憲法案ハ生ル『今ニ見テイロ』ト云フ気持抑ヘ切レスヒソカニ涙ス。」とあります。
 これを閣議決定しろと言われたときの、幣原首相の言葉は「かような憲法草案を受諾することはきわめて重大な責任である。おそらく子々孫々に至るまでの責任であろうと思う。この案を発表すれば一部の者はかっさいするであろうがまた一部の者は沈黙を守るであろう。しかし深く心中われわれの態度に対して憤激をいだくに違いない。だが今日の場合大局のうえからそのほか行く道がない」でした。
3月5日、同じ閣議での松本大臣の言葉「明治憲法でも案を作るのに一年以上かかった。今、日本の憲法を全般的に改正しようというのに二日や三日でこれを作って、これが日本の自主的な改正案だということをいうのは、これは内閣として実につらい」。そしてこれを承認した後、松本大臣は辞表を提出して、それからずっと沈黙を守っています。
 政府案が出て国会にかけられ一応議論が行われたけれども、議員は皆、結果的に通ることは分かっています。いろんな法律を通すよう占領軍が言ってきて抵抗はする。抵抗して時間が来て廃案になるかというと、時計の針は止められている。法案を通すまで翌日にはならないというわけです。
 10月5日、貴族院の本会議において、佐々木惣一先生(京都帝国大学教授・憲法学)の反対演説が行われました。この日の朝、議会の前に佐々木先生は家で水をかぶり斎戒沐浴されて明治神宮に参拝されました。“私はこの明治憲法の講義に命をかけてきました。最後に反対の討議をさせていただきます”
と祈り、議会に臨みました。長い演説でありました。そして最後に次のエピソードを話されました。
“帝国憲法の草案が成り、翌日親臨、審議せられたが、宮内省からご連絡があり当時の伊藤博文議長に伝えられ、天皇にこれを伝え、ご退席をうながされた。生まれたばかりの親王様がお亡くなりになられたのです。しかし明治天皇はそのままにと審議を進められた。そして審議中の条項の審議を終えて初めてご退席になられた。明治天皇がこの憲法にいかなる思いをかけられたか、ということがお分かりでしょう。その帝国憲法が消滅の運命に晒されている。じつに感慨無量であります”と演説されたのでした。
 この日、貴族院で改正案が可決されたとき、場内は一瞬沈黙、しばらくして後、波のような嗚咽の声が議場をおおったと言われています。
 この憲法施行の日にお一人の老学者が遺書をしたためました(亡くなられたのはその5ヶ月後)。その方の名前は清水澄(しみず・とおる)さんといわれ、九州帝国大学名誉教授で、枢密院の議長をされていた方です。
「新日本憲法ノ発布ニ先ダチ私擬憲法案ヲ公表シタル団体及個人アリタリ、其中ニハ共和制ヲ採用スルコトヲ希望スルモノアリ、或ハ戦争責任者トシテ今上陛下ノ退位ヲ主唱スル人アリ、我国ノ将来ヲ考ヘ憂慮ノ至リニ堪ヘズ、併シ小生微力ニシテ之カ対策ナシ、依テ自決シ幽界ヨリ我国体ヲ護持シ今上陛下ノ御在位ヲ祈念セント欲ス、之小生ノ自決スル所以ナリ、而シテ自決ノ方法トシテ水死ヲ択ビタルハ、楚ノ名君屈原ニ倣ヒタルナリ」
 昔、中国に楚という国があって、屈原という人がいて、水死によって諫言した。その故事にちなんで、清水さんは熱海の錦ヶ浦から身を投じられた。このように明治憲法に殉じた方があったということをご理解いただきたい。
 私が憲法の制定について時間の大半を費やして話したのは、これを知らずして憲法は論じられないからです。教育勅語に「朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」とありますが、国は遠く神話の世界から始まり、そして歴代の天皇様は大変な徳を積んでこられた、そういう国に生まれてきてよかったと思う、そういう思いが結晶されてこそ日本国憲法ではないですか。しかし「象徴天皇制は、これを維持する」ではこうした思いは伝わらない。
 明治憲法を起草した井上毅は最高の法制官僚でした。漢学をがっちり思想形成し、またフランスに行ってフランス語を学んだ。帰ってきた時には日本を代表する西欧の事情に精通する若手官僚でした。その後伊藤博文の側近となり、憲法起草の際は事務方の責任者になりました。そのとき彼は何をしたかというと、日本の古典の研究を始めたのです。古事記、日本書紀を徹底的に学んで、到達したのが「しらす」という言葉(「しらす」は知らせる、お治めになる、という意味。「しろしめす」(又は「しらしめす」)は知っていらっしゃる、お治めになる、という意味)。「天皇がこの国をしろしめす」とある。豪族が領地を支配することは「うしはく」である。「しらす」という言葉に天皇統治の理念がすべて含まれているのです。それは何かというと、天皇は国民の心をまず知る、知った上で国民の心をわが心とされて国民の幸せのために動かれる、あるいは神の心を知ろうとされる、ということなのです。
 井上は明治憲法(大日本帝国憲法)第一条に「大日本帝国憲法は万世一系の天皇のしらすところである」と定めたかった。しかし「しらす」は英語に訳せない(日本は当時憲法を翻訳して世界に知らせ、条約改正をアピールする必要があった)。井上は泣く泣く「万世一系の天皇が統治す」の修正に応じました。
 井上はさらに、先程説明した「教育勅語」を書いた。「朕惟フニ、我ガ皇祖皇宗、国ヲ肇ムルコト宏遠ニ、徳ヲ樹ツルコト深厚ナリ」歴代の天皇は徳を積み重ねられ、その徳を背景に国民に相対される。その徳とは何か。それは私を出さず、すべて国民の心を受け止められる鏡の精神(鏡に国民の心を映す)である。西洋の君主が行動するのに対し、日本の天皇はただひたすら耳を傾ける。しかしその受容の中に国民をすべて統合する大きな力がある。そのことを井上毅は知るに至ったのです。
 こうした日本国民がこれまで継承してきた大切なものをしっかり把握した上で、次の日本をどう作っていくのかを考えなければならないし、また一方で、日本の歴史・伝統をずたずたにした占領とその後の時代の安っぽさをしっかりふまえておかなければなりません。
 伊藤玲子先生が女性塾を作られた目的は、本当の歴史を知り、この日本をどうしたらいいのかという、しっかりした認識を持った議員を育てたいということだと思います。(終)

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