大和三山は、畝傍山199m、天香久山152m、耳成山139mで、藤原宮跡からは三山を一望できる。
起点は近鉄樫原神宮前駅から、樫原神宮参詣後境内を抜けて、最初に畝傍山に登る。
天香久山、藤原宮跡、耳成山を経由し大和八木駅までまで、およそ15㎞の行程である。
樫原神宮
畝傍山山頂
天候が悪く山頂からの遠望はきかなかった。下山後神武天皇陵を通過し、樫原考古学研究所付属博物館に立ち寄ったが、
まだ時間が早く会館前であったので通過した。近鉄樫原線畝傍御陵前駅の地下道を抜け、本薬師寺跡に向かう。
本薬師寺西塔跡心礎石、右奥の木立のあるところは東塔跡
本薬師寺跡礎石群
飛鳥川を渡り、紀寺跡を通過し天香久山に向かう。香久山のふもとに天岩戸神社がある。
天岩戸神社
天香久山への登り
持統天皇は天智天皇の娘である。この歌「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香久山」は、百人一首では、天智天皇の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」に続き二番目に掲載されている。
天香久山山頂
天香久山から畝傍山を遠望
天香久山を下山し藤原宮跡へ向かう途中、奈良文化財研究所藤原宮資料室に立ち寄り、近隣遺跡からの出土品を見学した。
先ほどの本薬師寺の軒瓦の文様は精巧ですばらしい。
藤原宮跡後方は耳成山
藤原宮は694年から710年まで持統、文武、元明天皇まで3代16年間都となる。その後、元明天皇が奈良の平城京への遷都を決定した。
藤原宮跡より雨で霞む畝傍山
藤原宮跡を北上し、JR桜井線、近鉄大阪線の踏切を渡ると間もなく耳成山登山口である。
耳成山登り
山頂直下の耳成山口神社
耳成山山頂
耳成山山頂付近から藤原宮跡、天香久山を遠望
耳成山下山後、和八木駅へ向かう
時間に余裕があったので大和八木から桜井経由、長谷寺に立ち寄った。
牡丹の開花にはまだ3週間ほど早かった
起点は近鉄樫原神宮前駅から、樫原神宮参詣後境内を抜けて、最初に畝傍山に登る。
天香久山、藤原宮跡、耳成山を経由し大和八木駅までまで、およそ15㎞の行程である。
樫原神宮
畝傍山山頂
天候が悪く山頂からの遠望はきかなかった。下山後神武天皇陵を通過し、樫原考古学研究所付属博物館に立ち寄ったが、
まだ時間が早く会館前であったので通過した。近鉄樫原線畝傍御陵前駅の地下道を抜け、本薬師寺跡に向かう。
本薬師寺西塔跡心礎石、右奥の木立のあるところは東塔跡
本薬師寺跡礎石群
飛鳥川を渡り、紀寺跡を通過し天香久山に向かう。香久山のふもとに天岩戸神社がある。
天岩戸神社
天香久山への登り
持統天皇は天智天皇の娘である。この歌「春過ぎて夏来にけらし白妙の 衣ほすてふ天の香久山」は、百人一首では、天智天皇の「秋の田のかりほの庵の苫をあらみわが衣手は露にぬれつつ」に続き二番目に掲載されている。
天香久山山頂
天香久山から畝傍山を遠望
天香久山を下山し藤原宮跡へ向かう途中、奈良文化財研究所藤原宮資料室に立ち寄り、近隣遺跡からの出土品を見学した。
先ほどの本薬師寺の軒瓦の文様は精巧ですばらしい。
藤原宮跡後方は耳成山
藤原宮は694年から710年まで持統、文武、元明天皇まで3代16年間都となる。その後、元明天皇が奈良の平城京への遷都を決定した。
藤原宮跡より雨で霞む畝傍山
藤原宮跡を北上し、JR桜井線、近鉄大阪線の踏切を渡ると間もなく耳成山登山口である。
耳成山登り
山頂直下の耳成山口神社
耳成山山頂
耳成山山頂付近から藤原宮跡、天香久山を遠望
耳成山下山後、和八木駅へ向かう
時間に余裕があったので大和八木から桜井経由、長谷寺に立ち寄った。
牡丹の開花にはまだ3週間ほど早かった