明治10年3月4日熊本隊本隊が木留に到着すると薩軍本営から田原坂へ応援の要請を受けます。
吉次峠から木葉、高瀬方面を望む
吉 次 峠 の戦 い佐 佐 友房 君 見 ずや吉 次 の険 は城 よりも険 なり
突兀 空 を摩 して路 崢嶸
煙 は籠 む高 瀬 河 辺 の水
風 は捲 く三 の岳 峰 上 の旌
一 朝 警 を伝 えて笑 って相 待 てば
忽 ち聞 く千軍 万 馬 の声
硝 煙 雲 と為 り丸 雨 と為 る
壮 士 の一命 鴻毛 よりも軽 し
吶喊 の声 は巨砲 に和 して響 き
山 は叫 び谷 は吼 え乾坤 轟
砲声 絶 ゆる処 松 声 寂 なり
一輪 の皎月 陣営 を照 らす
半高山から田原坂を望む
官軍がいた立岩、木葉方面を望む
墓地の中に建っています。
木葉、高瀬方面を望む
北の田原坂と南の吉次峠は戦線が繋がっていて、その間の谷や高地のほとんどが陣地化となっていました。
熊本隊の3個小隊を田原坂に派遣し、参謀・山崎定平が指揮をします。
佐々友房の一番小隊と岩間小十郎の十五番小隊は吉次峠の東側にある那智口に進撃、城市郎の三番小隊と北村盛純の七番小隊は大多尾の守備を薩軍に譲って田原坂背後の七本に向いました。
耳取峠では戦闘があり、熊本隊兵士の死傷者が出ています。
薩軍の篠原国幹、村田新八は半高山の山頂から三ノ岳中腹まで500人が陣を張って官軍を挟み撃ちにして破り、官軍は数百人の死傷者を出して退却しました。
しかし、篠原国幹が吉次越の六本楠で挺身して指揮していたところを顔見知りだった江田国通少佐が部下に篠原の狙撃を命じます。
篠原は狙撃されて戦死し、夜半に遺体は薩軍本営へ戻されました。
3月5日佐々友房の一番小隊は吉次峠の守線に戻り塁壁を増強します。
そして以前のように1日おきに左右の半隊が交代して守備に当たりました。
その後官軍は吉次峠を攻撃目標からはずし、田原坂へ集中攻撃をかける事になり、しばらく吉次峠での戦闘はありません。
3月20日に田原坂が陥落すると官軍は植木、木留に兵を進めます。
3月28日吉次峠に再度官軍が攻撃をしてきました。
しかし、要塞化した吉次峠では佐々隊、薩軍、新たに加わった人吉隊の防戦が有利で官軍は敗走しています。
しばらく小競り合いが続きましたが、4月1日官軍は近衛兵を中央に、第二旅団の鎮台兵を左右に配置して数百人が号砲3発を合図に三方面から吉次峠と半高山に突撃しました。
これを迎え撃つ佐々隊、薩軍、人吉隊でしたが戦闘数時間して半高山の人吉隊が撤退します。
半高山を奪った官軍は集結し佐々隊と薩軍に向けて一斉に弾丸を発射しました。
背後から敵弾が雨のように降ってきて挟み撃ちになった佐々隊と薩軍は身動きがとれず、山側の松林を潜行して三ノ岳へと後退してしまいます。
これにより地獄峠と恐れられていた吉次峠は陥落してしまいました。
吉次峠廠舎の古写真
上の古写真をカラー化
【西南戦争史跡】
吉次峠激戦地跡
吉次峠から木葉、高瀬方面を望む
この碑は佐々隊が死守したことを称えて建立されました。
佐々友房の漢詩
【通釈】
君は知っているだろう、吉次峠の峻険さは城壁を登るよりも困難だということを。崖は切り立ち、道は険しい。高瀬川から上る霧に視界も定かでなく、三ノ岳の峰の風が旗指物を吹き上げる。一たび敵襲が伝わり、笑って相対すれば、たちまち千軍万馬の敵が押し寄せてくる。硝煙は雲のように立ち、銃弾は雨のように降り注ぐ。勇壮な兵士の生命は、鳥の羽よりも軽い。敵陣に突入の鬨の声が砲声とともに山に叫び、谷に吼え、天地をとどろかせて響く。やがて、砲声が絶え、松の梢をわたる風声も静寂な中を、一輪の、皎皎たる月が陣営を照らし出すのである。半高山
吉次峠本道と半高山です。
半高山から田原坂を望む
令和14年までに公園整備計画があります
篠原国幹戦没の地
初めて薩軍の大隊長が戦死しました。
篠原国幹は他の将とは違って寡黙でしたが、決めた事には義を言わず断行する人物でした。
篠原国幹が習志野の地名の由来になったと言われています。
そんな篠原国幹の戦死は薩軍にとって大きな損害だったことでしょう。
官軍がいた立岩、木葉方面を望む
立岩薩軍砲台跡
道幅は狭く、わかりにくい場所ですが案内板があります。
墓地の中に建っています。
木葉、高瀬方面を望む
【明治十年西南戦役 田原・吉次・植木戦蹟図】にある岩立砲台
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