官軍からは地獄峠と呼ばれた吉次峠とは…
吉次往還の難所だったのは吉次峠でした。
吉次峠は三ノ岳の裾野と半高山(高さが三ノ岳の半分なので半高山)の谷間にある峠です。
吉次峠には佐々友房率いる熊本隊一番小隊が死守した事から佐々友房戦袍日記から見た吉次峠を書きたいと思います。
熊本城を攻撃中の薩軍に官軍(第一、ニ旅団)が博多から南関に向かっているのと、先鋒隊が既に高瀬(玉名市)にいると報告が入り、熊本城攻撃と官軍の南下阻止の並行作戦をとります。
北上した薩軍は植木にての緒戦、玉東町木葉(このは)で先鋒の第十四連隊を撃退して高瀬へ向いました。
明治10年2月26日熊本隊本隊は高瀬に向かう途中、白木村にて農夫から他の熊本隊がこの先の寺田村で苦戦していると告げられます。
その報告を聞いた熊本隊本隊は隊を救うため農夫に案内されて進んで行きました。
しかし、待っていたのは官軍の伏兵で熊本隊は一斉射撃を受けます。
農夫は官軍の間諜(スパイ)だったのです。
この戦闘で熊本隊は多大な戦死者を出し、六番小隊は全滅しました。
熊本隊は木留に退却、同時期に薩軍は高瀬・木葉で敗れ退却してしまいます。
その時、佐々友房率いる熊本隊一番小隊は吉次峠に向かって退却しました。(高瀬会戦)
吉次峠に着いのですが、薩軍は全軍が退却して人影がありません。
佐々は『吉次は絶嶮で枢要の地だ。今この地を捨てて敵に占領されたら、たとえ百の西郷があってもどうにもならない。ここに留まって死ぬのも、ここを捨てて10日後に死ぬのも、死は1つだ。私はこの地を死に場所と決めた。』と言うと隊全員が賛成、承知しました。
佐々は大いに喜び刀を抜いて傍らの大楠の幹を削り、墨も黒々と【敵愾隊悉死此樹下】と大書し、枯木を集めて篝火をたき、塁壁を設けて決死の覚悟で官軍の襲来を待ちます。
吉次峠の古写真
上の古写真をカラー化
3月3日官軍の第一、ニ旅団は一部の兵を高瀬に留め、安楽寺(現在の玉名市と玉東町の境にある地)へ三池往還を進みます。
官軍の支隊(歩兵2個中隊を前衛、歩兵3個中隊を後衛)を率いる野津道貫大佐は吉次往還を進みます。
薩軍の守備は以下の通りです。
吉次峠 佐々友房 (熊本隊一番小隊)
相良長良 (一番大隊五番小隊)
耳取峠 三宅新十郎(熊本隊五番小隊)
三ノ岳 岩間小十郎(熊本隊十五番小隊)
大多尾 林七郎次 (一番大隊一番小隊)
城市郎 (熊本隊三番小隊)
北村盛純 (熊本隊七番小隊)
遠坂関内 (熊本隊十番小隊)
野出 永山休二 (四番大隊五番小隊)
耳取峠は吉次峠の北隣りにあります。
これらの隊がお互いに連絡し合って防備を固めていました。
吉次峠では熊本隊の一番小隊長・佐々友房、軍監・高島義恭が右半隊を指揮して吉次越本道を守り、軍監・古閑俊雄、半隊長・真鍋慎十郎が左半隊を指揮して半高山の中腹を守りました。
官軍は砲撃を援護に本道を勢いよく射撃を行いながら進んできます。
しかし、薩軍や佐々隊が必死に防戦して官軍は吉次峠を抜く事ができません。
今度は半高山麓を廻って隣りの耳取峠を攻撃目標にします。
しかし、そこには古閑の隊が伏兵していました。
官軍がわずか数間に近づいて通り過ぎようとした時、伏兵が一斉射撃。
慌てた官軍は逃げる者、撃たれる者その数を知れず、さらに伏兵は激発してその横を撃たせたので多大な犠牲者を出しました。
やがて官軍は方向を変え、半高山に向かって一斉射撃を行います。
その状況はまるで大雨が降るようで、古閑が楯にしていた松の木は弾丸で皮がはじけ、幹は砕けて目を開くこともできない激しさでした。
戦闘は正午から夕方まで続き古閑隊は夜になると半高山に登って夜を徹して間道を固く守りました。
本道は佐々、高島等が奮闘して官軍を撃退しています。
この日の戦いで十数万発の弾丸が飛び交い、官軍の長さ数百mの堡塁の間は空になった薬莢で埋まり、官軍兵士の死屍が累々とした悲惨な情景だったようです。
官軍はこの日と翌4日の戦いに敗れて以来、吉次峠のことを地獄峠と呼んで近づくことを恐れました。
次項につづく
古閑俊雄の戦袍日記を参考しました。
耳越峠の事はこの日記を読むまで知りませんでした。