西南戦争での最大の激戦地
この攻めるは難しく、守るは易い田原坂を薩軍は防衛地としました。
ニの坂には官軍の陣地が構築されていました。
当時の田原坂古写真
豊岡眼鏡橋から望む田原坂
弾痕の家(復元)
田原熊野神社
熊本隊士の墓
奮闘した熊本隊を称えて建立されました
堡塁から柿木台場を望む
なぜ田原坂なのか?
その答えは当時の道にあります。
官軍が南関から熊本城へ向かうには豊前街道、
三池往還、吉次往還がありました。
(西南戦争のリアル 田原坂より)
大砲を運べるのは三池往還の田原坂しかなかったと言われていますが、田原坂の道幅約4mに対し豊前街道は参勤交代に使用された街道で広い所で約8mありました。
しかし、豊前街道は南関から山鹿まで川を5つ、坂を19ヶ所、山鹿から植木までは川2つ、坂5ヶ所と非常に難所が多かったようです。
吉次往還に関しては道幅が狭いうえに吉次峠の難所があり、最短で熊本城を目指すなら比較的難所が少ない三池往還を通るしかなかったのです。
三池往還にある田原坂は加藤清正が熊本城北側からの敵を防ぐために作られた場所で全長約1.2km、高低差約80mで緩やかな坂にいくつものカーブで先が見えない道でした。
それに両壁が高い堀抜きの道で当時は滑りやすい赤土だったようです。
田原坂を進む敵に対し両壁は樹木が茂り伏兵を置くことができ、高所から攻撃ができます。
この攻めるは難しく、守るは易い田原坂を薩軍は防衛地としました。
薩軍は50歩ごとに土塁を築き、横穴を掘って退避壕として官軍を迎え撃ちます。
(西南戦争のリアル 田原坂より)
(田原坂古写真)
官軍は高瀬の戦い後、本軍と支軍で三池往還と吉次往還の2道併進作戦を決行します。
しかし、両方を一度に抜くのは困難で山鹿口も同様であることが明らかになりました。
そこで三池往還の田原坂に兵を集中することにします。
そうした事から田原坂が最大の激戦地となりました。
(西南戦争のリアル 田原坂より)
官軍は田原坂に最大約8万名を動員。
死傷者約3000名、戦死者約1700名。
その数は官軍全戦死者の25%にもなります。
先鋒の第一、ニ旅団のほか三浦梧楼少将の第三旅団、大山巌少将の別働第一旅団、陸軍士官学校生徒までも投入され兵員は複雑に入り交じっていました。
薩軍兵力は記録不詳で配置換えもあり不明ですが数千人規模と考えられます。
田原坂では官軍が新鋭のスナイドル銃で薩軍は旧式のエンフィールド銃だったのが薩軍敗退の原因と言われていますが、調査の結果薩軍もほとんどがスナイドル銃だったことがわかっています。
しかし、両軍の物量の差は明らかで官軍10発に対し薩軍は1発と銃弾を節約し、必要に応じて猛射ししました。
(有名なかちあい弾は造作です・西南戦争のリアル 田原坂より)
官軍の消費弾数は田原坂の戦い17日間で548万発、1日平均32万発を使用しています。
(激しい銃撃戦で樹木が切断された田原坂)
薩軍と官軍との距離が20mほどの接近した時もあり、その距離で激しい銃撃戦や白兵戦を繰り広げ辺りには数多くの戦死者の遺体や負傷者が溢れている状況だったようです。
薩軍は官軍の猛射の中、側面などから突っ込み白兵戦を行いました。
これに対抗した官軍は銃に着剣しましたが、剣には刃がついてなかったので薩軍は左手で銃剣を掴み右手で片手なぐりに斬っていきます。
その後、銃剣を研いで刃をつけましたが平民からなる官軍と士族の薩軍では効果は低かったようです。
官軍は白兵攻撃に対抗すべく剣術に長けた警視隊101名からなる部隊、警視抜刀隊を投入します。
警視抜刀隊の功績により官軍には薩軍に対抗する手段が見えてきたようです。
警視抜刀隊はよく戊辰戦争での旧幕府士族からなると言われています。
しかし、一部に旧幕府士族がいましたがほとんどが鹿児島の郷士階級出身者です。
明治10年3月4日から激しい戦闘を繰り広げられた田原坂ですが3月20日ついに陥落しました。
官軍は20日の早朝、二俣・横平山から放たれた砲撃を合図に田原坂本道及び側面から一斉に攻撃を開始します。
田原坂本道では薩軍の抵抗が激しく一進一退の攻防が繰り広げられました。
側面から本多中尉率いる1隊が柿木台場を襲撃。
柿木台場を守っていたのは16日から戦闘に参加したばかりの高鍋隊でした。
まだ戦闘に慣れていなかった高鍋隊は虚をつかれ潰退してしまい柿木台場は官軍に占拠されます。
田原坂本道で戦っている薩軍は後方にある柿木台場からの挟み撃ちになる形になってしまい田原坂を捨て木留まで退却するしかなくなりました。
これで両軍多くの死傷者を出した17日間にもおよぶ田原坂の戦いは終わる事になります。
今回使用した写真の【西南戦争のリアル 田原坂】は田原坂での戦闘状況や発掘調査など詳細に載っています。
おすすめの1冊です。
田原坂
ニの坂には官軍の陣地が構築されていました。
陣地からは発掘調査で多くの薬莢が出てきているようです。
ニの坂の官軍を迎え撃つ薩軍は三の坂に陣地を築きました。
ここからも多くの薬莢が出ています。
当時の田原坂古写真
豊岡眼鏡橋
官軍はこの橋から田原坂一の坂を目指して進みます。
豊岡眼鏡橋から望む田原坂
田原坂攻撃官軍第一線の碑
西南之役戦没者慰霊碑
谷村計介の碑
谷村計介は熊本城内から官軍本隊へ状況報告の密使として百姓姿に変装し熊本城から脱出しました。
本妙寺裏を抜けて進む途中薩軍に捕縛されたのですが脱走、その後またもや吉次峠で熊本隊に捕縛されたのですが2度目の脱走、ようやく第1旅団本部に辿り着きます。
官軍の野津鎮雄少将に熊本城内の状況を報告したのですが2日後の3月4日田原坂にて戦死してしまいました。
【田原坂公園内の史跡】
田原坂公園
弾痕の家(復元)
田原坂公園から見た三の坂
西南役戦没者慰霊の塔
塔の後ろには田原坂で戦死した方々の名前が刻まれています。
崇烈碑
田原坂公園内にある政府公的に建立された碑
美少年の像
若くして田原坂に散っていった薩軍少年兵の像
モデルは薩将・村田新ハの息子・村田岩熊と云われています。
薩摩塚
田原熊野神社
ここでは神社の参道を挟んで両軍が銃撃戦をしています。
発掘された薬莢からお互いの距離は約60mほどしかなく、樹木なども弾除けにしていました。
参道の石塔などには今も弾痕が残っています。
七本官軍墓地
この墓地には田原坂の戦いの後、植木や吉次、木留、辺田野などの戦闘で戦死した各鎮台兵や近衛兵300余名が埋葬されました。
墓石は後年作り変えられ旧墓石は墓地の周りを囲むフェンスとして利用されています。
七本柿木台場薩軍墓地
田原坂陥落の原因となった柿木台場があった場所です。
木留や七本付近で戦死した薩軍、熊本隊の兵士311名が台場跡に埋葬されました。
地域的にみて官軍が田原坂攻略後、木留の薩軍本営まで押し迫った時期の戦死者のようです。
近くの官軍墓地と比べると同じ墓地でも違いますね。
熊本隊士の墓
奮闘した熊本隊を称えて建立されました
柿木台場の古写真
堡塁から柿木台場を望む
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西南戦争のリアル 田原坂
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