植木町市街地における西南戦争
向坂(豊前街道)
明治10年1月28日 山縣有朋は熊本鎮台司令長官・谷干城に警戒命令を発しました。
(1月29日に私学校党が鹿児島の草牟田陸軍火薬庫を襲撃しましたが、その前日には警戒命令を発しっている事に違和感があります。)
2月17日 谷干城は熊本鎮台小倉分営に駐屯中の歩兵第十四連隊長・乃木希典少佐へ熊本に進発するよう命じます。
2月18日 非常警備の命で久留米に出動していた第十四連隊第一大隊左半大隊は久留米を出発して熊本に向い、19日に熊本城に入りました。
2月18日~20日 第十四連隊のその他の隊は随時小倉を出発します。
乃木少佐は第三大隊と共に18日に出発し、22日午前中には高瀬(玉名市)に到着。
22日は薩軍の熊本城攻撃が開始されており、煙が高く立ち上がっているのを見て午後に植木へ向けて進発、熊本城を目指します。
官軍の南下を悟った薩軍は村田三介率いる五番大隊ニ番小隊約300名を北上させ、植木町向坂の崖上に布陣し、官軍を待ち受けていました。
乃木少佐はこの事を木葉(玉東町)で知ります。
22日午後7:00頃薩軍が喚声を上げて官軍に迫りました。
官軍は銃射でこれを退け、薩軍が後退したところを追撃します。
戦闘当初は官軍が優勢に事を運びましたが、午後9:00頃に伊東直二率いる薩軍四番大隊九番小隊が来援、官軍の第一線に突撃しました。
官軍は全線にわたり苦戦に陥ります。
乃木少佐は町外れの千本桜まで隊を後退、殿軍を命じられていた旗手・河原林少尉は隊に戻らず戦死。
連隊旗を薩軍に奪われる大失態を犯します。
官薩両軍緒戦之地
植木天満宮は戦端の火蓋が開かれた場所です。
向坂(豊前街道)
河原林少尉戦死の地
河原林少尉はここで薩軍伊東隊の岩切正九郎に斬られ連隊旗を奪われました。
薩軍弾薬庫跡
この場所には西寺という寺があり、薩軍の弾薬庫でした。
田原坂での敗退で薩軍は植木に退却。
それを追う官軍と激しい戦闘が繰り広げられています。
そんな状況のなか、突然大音響をたてて火薬庫が爆発、西寺を吹き飛ばしました。
大爆発の理由は今も不明です。
現在は区画整理もされて住宅街になっており、案内板など何もありません。
植木学校跡
熊本民権党の宮崎八郎等が設立しました。
植木学校は鹿児島の私学校と気脈を通じ、戦闘訓練など行ったことから熊本県の補助金を打ち切られ半年で閉校してしまいました。
その後、薩軍が決起すると熊本民権党は熊本協同隊を結成して薩軍と共に行動します。
仁連塔神社
この神社には西南戦争の弾痕が残っています。
千本桜・乃木大将記念碑
緒戦で薩軍の攻撃により乃木少佐(のちに大将)が隊を後退させた場所です。
明徳官軍墓地(向坂官軍墓地)
寄鶴官軍墓地
この官軍墓地は軍夫のみ30名が埋葬されている珍しい墓地です。
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