南関より官軍の第一・ニ旅団が南下してくるのを阻止するため薩軍は熊本から兵を分けて北上します。
3月24日
4月1日
4月6日
4月9日
地元の方によりとても綺麗に管理されていました。
北上するにあたり木留に本営を置き、薩軍一番大隊長・篠原国幹、ニ番大隊長・村田新八、六・七番連合大隊長・別府晋介が入り高瀬の戦い・木葉の戦い・吉次峠の戦い・田原坂の戦いと向かっていきました。
木留での本格的な戦闘は田原坂陥落後の明治10年3月24日から4月15日までになります。
【木留・荻迫での戦闘状況】
3月23日
七本の官軍が進軍を開始。
滴水から荻迫、木留、半高山を攻撃しますが薩軍の抵抗が激しくこの日は全軍後退します。
3月24日
官軍は再び木留に進撃して一時的に木留を制圧しますが薩軍の逆襲にあい保持できませんでした。
26日から木留方面に攻撃を集中します。
4月1日
官軍は木留を突破すべく半高山、吉次峠、三ノ岳方面へ総攻撃を仕掛けます。
半高山攻撃部隊は三方向から一斉に半高山を急襲して制圧しました。
半高山の官軍はその勢いのまま木留に進軍して木留を占領しました。
薩軍は本営を立福寺に移し、熊本隊は東門寺に移しています。
4月6日
午前4時半頃、官軍は密かに荻迫の薩軍陣地へ忍び寄り強襲します。
不意を突かれた薩軍は取り乱してしまい第一陣を突破されてしまいました。
勢いに乗じて第二陣へと迫りましたが薩軍の逆襲にあい元の守線に後退します。
4月8日
午前4時半頃、官軍は再び進軍を開始します。
前衛と左翼隊は滴水から荻迫の薩軍陣地へ向かい、右翼隊は木留から辺田野の薩軍陣地に向かい攻撃しますが、防備を固めた薩軍は応戦して一歩も退かなかったため戦局は膠着しました。
4月9日
官軍は本営を七本から滴水に移します。
乃木少佐率いる2個中隊が辺田野の薩軍陣地を攻撃しますが、薩軍の反撃激しく乃木少佐は負傷して後退しました。
4月12日
薩軍が滴水の官軍本営を攻撃しますが官軍はこれを撃退します。
4月15日
前日に官軍の衝背軍が熊本城に入城したため薩軍は熊本城の攻囲を解きます。
この知らせを受けて薩軍はこの地から退却しました。
田原坂陥落後の両隊の動き
桐野利秋の四番大隊は隈府(菊池市)へ後退し、隈府・植木・萩迫・木留・吉次峠・三の嶽を結ぶ防衛線を構築します。
官軍はこの防衛線を破るため各方面へ向けて進発しました。
木留・萩迫には第一・ニ旅団、第十四連隊、警視隊が歩兵6~9個中隊を1隊として左翼、右翼、中央本隊、後援隊に分け、砲隊の援護を受け進みます。
薩軍は防衛線を死守するため堡塁や胸壁、台場を築き応戦し、お互い堡塁の奪い合いを行う激しい戦闘がありました。
(古写真に残る植木の堡塁)
ときにはお互いの距離が34間(約61m)ほどで戦闘をしています。
しかし、官軍の圧倒的な兵士数と軍備により薩軍は4月15日に木留より退却します。
木留には薩軍本営、薩軍病院、熊本隊本営が設置されました。
薩軍本営跡
薩軍二番大隊の隊長・村田新ハは木葉、田原坂、吉次峠での戦いをここで指示しています。
薩軍病院跡
熊本隊本営跡
佐々友房の戦袍日記には2月27日に池辺大隊長は負傷のため熊本の二本木にある薩軍病院へ向い、花岡山南麓の石川清彦宅に本営を置き、木留には出張本営を置いたとあります。
熊本隊の出張本営があった木留辺りの古写真
萩迫柿木台場跡・薩軍戦没者の墓・薩軍美少年の墓
柿木台場には西南戦争時、高城(たき)七之丞率いる薩軍三番大隊三番中隊が配置されていました。
今は台場の面影はありませんが柿木台場の根元に薩軍の墓が建立されています。
地元の方によりとても綺麗に管理されていました。
萩迫神社
西南戦争の弾痕が残る神社です。
辺田野熊座神社
4月上旬の激戦で乃木少佐以下9名がこの神社境内で負傷しました。
後年、大将になった乃木希典がこの時の事を詠んだ詩碑があります。
山縣有朋歌碑
激戦地だった吉次峠に至る途中にあります。
昭和17年に有志により建立されたとのことです。
場所がわかりにくいのですが観光農園吉次園の農園側に写真にある入口があります。
河原立薩軍墓地
菱形小学校裏の高台にあります。
この周辺で戦死した薩軍19名が埋葬されています。
鹿児島の西太良(伊佐市大口)出身の永峯八郎兵衛(21歳没)以外は名前が不明ってことです。