日輪寺
山鹿市の北側にある寺です。
山鹿口の戦いで薩軍の拠点として見張り所や指揮所が置かれていました。
この寺には政府軍の小隊長押川仙太郎の顕彰碑が建てられています。
押川は薩軍撤退後この地にやってくると道端に放置されている3人の薩軍兵士の遺体を見つけます。
戦死した者に敵味方は関係ないと考えた押川は地元の人にお金を渡して薩軍兵士の供養を依頼しました。
顕彰碑の隣りに薩軍兵士3人の墓があります。
写真は逆光で見えにくいです。
万行寺
山鹿市の上吉田にあるこの寺は薩軍と政府軍が宿営した寺です。
明治10年2月25日薩軍が山鹿を占領後万行寺北側にある深倉の間道を守るため薩軍60~70名が宿営しました。
3月21日薩軍が撤退後3月25日~28日まで政府軍が宿営しています。
協同隊士三人野満顕彰碑
山鹿市墓地公園にある野満長太郎・安親・富記の顕彰碑です。
3人は植木学校で学び協同隊に参加しました。
長太郎は協同隊分隊長として薩軍と転戦し、延岡俵野で政府軍に投降します。
2年の投獄後郷党の指導者として尊敬されました。
安親・富記兄弟は長太郎とは従兄弟にあたり、2月22日薩軍の熊本城総攻撃が始まると2人は真っ先に城壁取り付き奮戦しました。
兄弟はお互いその名を連呼しつつ弾丸雨注の中壮絶な戦死を遂げています。
薩軍仮繃帯所跡
山鹿市平山温泉の外れにあります。
ここには政府軍の平山別動隊がいました。
田原坂の激戦に先立つこと1週間余から田原坂陥落までの1ヶ月間この地区では薩軍と政府軍の攻防戦が繰り広げられています。
今田テキさん(当時13才)の話によれば、この付近は薩軍の宿営地となり、当今田宅は繃帯所ともなったとのことです。
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